知ることは、認識すること、すなわち認識をつくることである。
ならば、知識とは認識であることになる。
また、世の中のあらゆる知識から偶有性をすべて捨てるべく考えてみる。
すると、「客観的である」という属性だけが残る。
ゆえに、知識という認識の本質は、「客観的である」という属性である(「本質とは何か」参照)。
よって、知識とは「客観的な認識」である。
無論、客観的な認識は正しいとは限らないから、知識は正しいとは限らない。
では、世の中はどう考えているのだろう。
辞書によれば、知識とは「知ること。認識・理解すること。また、ある事柄などについて、知っている内容」である(デジタル大辞泉)。
しかし、「知ること」はプロセスであり、知識は「知ること」というプロセスのアウトプットである。プロセスはアウトプットではないから、「知ること」は誤りである。
同様に「認識・理解すること」もプロセスだから、誤りだ。
また、「知識とは何か」の問いは、言い換えれば「知っている内容とは何か」である。「知っている内容」では答えにならない。
同じ辞書で、哲学で言う知識である「確実な根拠に基づく認識。客観的認識」も紹介されている。
しかし、「根拠に基づく」は限定的であり、汎化が十分ではない。
例えば「事実」に根拠はなく、ゆえに事実についての知識にも根拠はない。
「客観的認識」は、さすがにズバリであるが、知識の一般的な解釈として世の中に普及していない。
加えて、どの対義語(反対語)辞書/辞典を見ても、知識の対義語はない。これは、知識の一般的な解釈が曖昧であることを示す。
概して、一般的な解釈が曖昧な言葉には対義語がないものなのだ。
敢えて既存の言葉の中から知識の対義語を挙げるとすれば、「思い込み」あたりだろう。
知識が客観的な認識であるならば、知識の対義語は主観的な認識である。それを平たい言葉に直すと「思い込み」の類となる。
なにしろ、世の中は、知識とは何かを分かっていないのだ。
「知識社会」が叫ばれて久しいにも関わらず、である。
なお、認識は「客観/主観」の軸で「客観的な認識」と「主観的な認識」に分類できる。その内の前者が知識である。
他方、認識は「価値を生む/生まない」の軸で「価値を生む認識」と「価値を生まない認識」に分類できる。その内の前者が情報であり、後者がデータである(「データとは何か」「情報とは何か」参照)。
よって、知識には、価値を生む情報であるものと、価値を生まないデータでしかないものがある。
この点、整理できていないより、整理できていたほうがいい。
ちなみに、世の中は、知識がその対象である事物にあるとは思っていない。人の頭の中にあると思っている。
他方、データや情報はその対象である事物にあると思っている。実は人の頭の中にあるのにだ。
なんとも不思議なお話である。