人は、認識がその対象である事物に当てはまるとき、その認識は「正しい」と言う。その認識には「正しさ」があるということだ。
対して、認識がその対象である事物に当てはまらないとき、その認識は「誤っている」と言う。その認識には「誤り」があるということだ。
このときの「正しさ」は「真」であり、「誤り」は「偽」である。
また、人は、人の考えや言動が価値を生むとき、その考えや言動(を対象とする認識)は「正しい」と言う。その考えや言動(を対象とする認識)には「正しさ」があるということだ。
対して、人の考えや言動が害を生むとき、その考えや言動(を対象とする認識)は「誤っている」と言う。その考えや言動(を対象とする認識)には「誤り」があるということだ。
このときの「正しさ」は価値であり、「誤り」は害である。
特に、しばしば、人は、集団に共通する考えや言動を「正しい」と言う。集団に共通する考えや言動は、それに賛同することによってその集団に属しやすくなるなどの価値を生むからである。
さらに、人は、権威者の考えや言動を「正しい」と言う。権威者の考えや言動は、それに賛同することによって引き立てられるなどの価値を生むからだ。
したがって、「正しさ」とは『「真」または「価値」』であり、「誤り」とは『「偽」または「害」』である。
どちらも認識の属性である。
しかし、世の中の多くの人は、「正しさとは何か」を明確には分かっていない。
そのため、かつて天動説に対する地動説がそうであったように、しばしば、「真」である「正しさ」がある認識は、それに「害」である「誤り」があると見る人にとっては、「偽」である「誤り」があるものになる。
また、裸の王様の寓話に見られるように、「偽」である「誤り」がある認識は、それに「価値」である「正しさ」があると見る人にとっては、「真」である「正しさ」があるものになる。
つまり、誰かにとっての「価値」の有無によって、「正しさ(真)」が「誤り(偽)」になり、「誤り(偽)」が「正しさ(真)」になる。
「もう、そんな時代じゃないだろう」との声が聞こえてきそうである。
しかし、「真」である「正しさ」が尊重されるはずの今の時代でも、しばしば、政府や企業という集団にとっての「価値」の有無によって、「正しさ(真)」が「誤り(偽)」になり、「誤り(偽)」が「正しさ(真)」になる。
それが原因で起きる不祥事は、絶えることがない。
それに、そもそも、人類は今でも、本質という、普遍的に事物に当てはまるという意味で正しい(真である)認識からはるか遠くにいる。
しかも、そのことに気づきさえもしない。
まだまだそんなレベルの世の中である。
「正誤(真偽)の逆転」は、あってもまったく不思議ではない。むしろ「さもありなん」な現象なのだ。
人類は、本質に迫らなければならない。
なお、「正しさ」「誤り」には、論理の「正しさ(真)」「誤り(偽)」もある。
それらは、その対象である事物に当てはまる/当てはまる、であるとは限らない(「論理とは何か」参照)。