辞書には、関係とは「二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い」(デジタル大辞泉)とある。
しかし、「かかわり合うこと」は「関係すること」の言い換えである。「かかわり合い」は「関係」の言い換えだ。
これでは、関係とは何かを特定したこと、すなわち、関係を普遍的に定義したことにならないだけでなく、関係を単に定義したことにさえならない。
関係とは何なのか。
「認識とは何か」で見たように、認識は、リンクかノードである認識からなるネットワーク構造を持つ。
この内のリンクを一般的に「関係」と呼ぶ。
ならば、関係とは「認識間を繋ぐ認識」であることになる。
次に見なければならないのは、「認識間を繋ぐ認識」以外の関係があるか否かである。
この世には、現実に存在する事物、現実に存在する事物を表す認識、現実に存在しない事物を表す想像が存在する。
この内、空想は、認識と同じネットワーク構造を持つ。
ゆえに、関係には「空想間を繋ぐ空想」もある。
では、現実の事物ではどうか。
例として「親子関係」を見てみよう。
ここでは、話を単純化するために、「親子関係」を「産んだ/産んでもらった関係」とする。
親が子供を物理的に産んでも、親子が物理的な「親子関係(産んだ/産んでもらった関係)」で繋がるわけではない。
もしも親子が物理的な「親子関係」で繋がるのであれば、親が亡くなればそれは消失するはずである。
しかし、実際にはそうならず、認識(記憶)として「親子関係」は残る。
「親子関係」に留まらず、「先祖/子孫関係」もそうである。
また、存命する親子の場合でも、離れて暮らす音信不通の親子の間に物理的な「親子関係」は存在し得ない。
親が子供を産むと、親が子供を産んだという認識上の「親子関係」が生じるだけなのだ。
物理的な事物ではなく認識であるからこそ、親子関係は解消することができる。
実は、あらゆる現実の事物の「関係」は、認識の「関係」に置き換えて説明できる。
親子関係のような「関係」も勘案すると、認識の「関係」に置き換えなければ説明できない事物の「関係」もある。
我々が現実の事物の「関係」と考えているものは、実は、認識の「関係」なのだ。
現実の事物に「関係」は存在しない。
つまり、関係には「認識間を繋ぐ認識」と「空想間を繋ぐ空想」しかない。
よって、関係とは「認識か空想を繋ぐ認識か空想」である。
なお、関係には「認識と空想を繋ぐ空想」が含まれる。
「認識と空想を繋ぐ空想」があるから、頭の中で現実と非現実を繋ぐことができる。
また、我々は、しばしば「関係ない」と言う。
これは、「(ある意味で)関係ない」という「関係」である。