辞書によると、正義とは下記のものである。
・「正しい道理。正しいすじみち。人として行なうべき正しい道義」(日本国語大辞典)
・「人の道にかなっていて正しいこと」(デジタル大辞泉)
・「人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値」(ブリタニカ国際大百科事典)
一番目と二番目のものは、「正しい」をどのような意味で使っているかが重要だが、明示されていない。
一番目の「道理」「道義」は、「正しい」ものであるのが前提であろうから、「正しい道理」「正しい道義」では「正しい」が重複する。
三番目の「究極的な価値」の「究極的」は、限定的過ぎだ。正義には、ささやかなものもあるだろう。
世の中は、正義とは何かを分かっていない。
では、「正しい」とは何だろう。
事物が「正しい」とは、事物に「正しさ」があるという意味であるから、ここでは、「正しさ」とは何かを考えてみる。
人は、認識がその対象である事物に当てはまるとき、その認識は「正しい」と言う。その認識には「正しさ」があるということだ。
対して、認識がその対象である事物に当てはまらないとき、その認識は「誤っている」と言う。その認識には「誤り」があるということだ。
このときの「正しさ」は「真」であり、「誤り」は「偽」である。
また、人は、人の考えや言動が価値を生むとき、その考えや言動(を対象とする認識)は「正しい」と言う。その考えや言動(を対象とする認識)には「正しさ」があるということだ。
対して、人の考えや言動が害を生むとき、その考えや言動(を対象とする認識)は「誤っている」と言う。その考えや言動(を対象とする認識)には「誤り」があるということだ。
このときの「正しさ」は価値であり、「誤り」は害である。
したがって、「正しさ」とは「真」または「価値」であり、「誤り」とは「偽」または「害」である。
どちらも認識の属性である。
この内、「価値」には、個人にとっての「価値」と、集団にとっての「価値」がある。
集団にとっての「価値」を生む考えや言動は、集団内に共通する考えや言動になりやすい。
そして、一般的に、集団にとっての価値を生む集団内に共通する考えや言動を「正義」と呼ぶ。
また、言動は考えが生むものだ。
よって、正義とは「集団にとっての価値を生む集団内共通の考え」である。
だから、ある集団にとっての正義は、他の集団にとっての害を生むこともある。
近年拡大している○○ヘイトは、その一例であり、独善的だ。
広く見れば、顧客集団にとっての価値を生む企業内共通の考えである企業理念も正義である。
我々は、正義を重んじるべきだが、独善的な正義は避けなければならない。
なお、正義には、例えば幕末の尊王攘夷思想のような、それを共有する集団以外の個人や集団にとっての価値を生む考えであるものもある。
しかし、尊王攘夷思想は、それを共有する志士たち自身にとっての価値を生む考えだ。
同様に、それを共有する集団以外の個人や集団にとっての価値を生む集団内共通の考えもまた「集団にとっての価値を生む集団内共通の考え」である。
価値に関連する事物について考えるとき、他者にとっての価値を生むものが、自身にとっての価値を生むものであることも多いことにも留意が必要である。