辞書によれば、推論とは「ある条件や状況を仮に設定すること」(デジタル大辞泉)である。
「ある条件や状況」のように「や」で例を繋ぐのは、言葉の定義にふさわしくない。
限定的で汎化できていないということだ。
一般的に、推論とは、「○○。ならば□□」のように、何かから他の何かを言うという形をとるが、辞書にはそのことが明示されていない。
これでは、あまり参考にならない。
そこで、「○○。ならば□□」を起点として、改めて推論とは何かを考えてみる。
「○○。ならば□□」の「〇〇」は、「前提」と呼ばれる認識である。
「○○。ならば□□」の「□□」は、「結論」と呼ばれる認識である。
よって、「○○。ならば□□」は、前提である認識から、結論である認識をつくることであることになる。
しかし、実は、「○○。ならば□□」には、別に「大前提」と呼ばれる認識が置かれており、これが「言わずもがなのもの」となっている。
例を引く。
「私は人間である。ならば私は死ぬ」は、前提である「私は人間である」という認識から、結論である「私は死ぬ」という認識をつくる推論である。
しかし、実は、これには、別に大前提である「人間は死ぬ」という認識が置かれており、これが「言わずもがなのもの」となっている。
そして、結論である「私は死ぬ」という認識は、大前提である「人間は死ぬ」という認識に基づき、前提である「私は人間である」という認識からつくられたものである。
同様に、推論における結論である認識は、大前提である認識に基づき、前提である認識からつくられたものである。
推論における大前提は、「推論規則」や「ルール」とも呼ばれるものであり、ここでは「ルール」と呼ぼう。
つまり、推論とは、ルールに基づき、前提である認識から、結論である認識をつくることなのだ。
短縮すると「ルールに基づき、前提から結論をつくること」となる。
これが結論である。
なお、推論とは、あくまでも「ルールに基づき、前提から結論をつくること」であり、「正しい結論をつくること」ではない。
その意味で、推論は、辞書にもあるように「仮に設定すること」であると言えなくもない。
また、推論をプロセスとしての推論ではなく、プロセスのアウトプットとしての推論と捉えれば、推論とは「ルールに基づく前提と結論の関係」であると言える。
「ルールに基づく前提と結論の関係」は「論理」である(「論理とは何か」参照)。
よって、プロセスのアウトプットとしての推論は「論理」である。
推論の内、ルールに対する矛盾がないものは、正しい「論理」である。
推論には、対象に違いなどによって、「推理」「推測」「推定」「憶測」など多くの種類があるが、どれも「推論」である。