本質についての理解を深めるためには、人間が持つ認識のメカニズムを理解する必要がある。
人間は、頭の中で、現実を、それを構成する要素、すなわち属性である事物(認識)に分解し、それらの事物(認識)を互いに関係付けることによって頭の中に表す。そうしたプロセスが認識するということ、つまり現実を見るということであり、そのアウトプットとして頭の中に表される現実(認識)が「現実の見方」である。
例えば、我々は、ネコを見るとき、ネコを構成する要素、すなわち属性である頭、胴体、手足、尻尾に分解し、頭を耳、目、鼻、口、ヒゲに分解し、頭、手足、尻尾は胴体に接し、耳は頭の左右に接しているというように、互いに関係付ける。
加えて、現実を見るプロセスの中で、我々は、本質で「ある事物が何か」を規定することによって同じ個別の事物(認識)すべてを「ある事物すべて」という普遍の事物として括る(「括り」も関係付け)。
同時に、ぞれぞれの個別の事物(認識)を普遍の事物の一つ、すなわち「ある事物の一つ」として位置付ける(「位置付け」も関係付け)。
例えば、ネコの本質で「ネコが何か」を規定することによってすべての個別のネコを普遍のネコという集合「ネコすべて」として括り、それぞれの個別のネコを普遍のネコの一つ、すなわち「ネコの一匹」として位置付ける。
しかし、現実には、個別のネコしか存在せず、普遍のネコは存在しない。
同様に、個別の事物しか存在せず、普遍の事物は存在しない。
なのに、なぜ、我々は、個別の事物を現実には存在しない普遍の事物の一つとして位置付けるのか?
例えば、個別のネコを、普遍のネコの一つ、すなわち「ネコの一匹」として位置付けずに認識するためには、例えば「生き物」「四つ足」「丸い目」「三角耳」「ニャーという鳴き声」「短い尻尾」「白い体毛」「長い髭」のような多くの属性で規定しなければならず、それでもまったく十分ではない。
これら多くの属性のそれぞれが意味するものも、「生き物の一つ」「四つ足の一つ」「丸い目の一つ」「三角耳の一つ」「ニャーという鳴き声の一つ」「短い尻尾の一つ」「白い体毛の一つ」「長い髭の一つ」という、普遍の事物の一つとして位置付けられた個別の事物である。
だから、これらの個別の事物を認識するため、さらに多くの属性で規定しなければならず、これを延々と繰り返さなければならない。
つまり、個別の事物を普遍の事物の一つとして位置付けることなしに現実を見ようとすれば、我々は、多くの個別の事物を他の多くの個別の事物で延々と規定しなければならなくなる。
しかし、どこかで端折らざるを得ないだろうから、我々が見る現実は曖昧なものとならざるを得ない。
我々は、個別の事物を普遍の事物の一つとして位置付けることによって、現実を見るプロセスを大幅に単純化、効率化することができている。
本質がなければ、我々はろくに現実を頭の中に表すことさえできないだろう。
以降、本質に関連する幾つかの重要な事柄を見て行こう。
世の中は、本質は一つの事物に一つしかないと考えがちだが、それは誤りである。
本質は、一つの事物に一つとは限らない。複数あることもある。
現に、水が持つ「ある事物の普遍的な特徴」、すなわち本質は「化学式H2Oで表される構造」だけではない。水すべてに固有の密度や比熱などの物性という属性もある。
本質は、単一の属性であるとは限らない。
複数の属性の組み合わせ(それも単一の属性と考えることもできるが)であることもある。
また、本質を構成する属性は本質でなくても構わない。
現に、水の本質である「化学式H2Oで表される構造」は、「H(水素)」と「O(酸素)」など複数の属性の組み合わせである。
「H」と「O」は、水以外の事物も持つ属性であるから、水の本質ではない。
本質と言えば、「事物の内部にあって、普段は見えないもの」と思われがちだが、これも誤りである。
本質は、事物の内部にある「内的属性」であることもあれば、他の事物との関係という、事物の外部にある「外的属性」であることもある。
例えば、子の本質は「親を持つ」という親との関係であり、「親を持つ」という親との関係は、子の「外的属性」であり、普段から見えるものである。
実は、哲学においても、しばしば本質とは「事物の内部にあって、普段は見えないもの」とされる。
「本質」の対義語は「本質が外的に発現したもの」との意味での「現象」とされ、よって、「本質」の哲学的な対義語を「現象」とする辞書もある。
しかし、「本質が外的に発現する」とは、物理的にどのような事象なのか?
その点が不明瞭であり、そうである以上、「本質が外的に発現したもの」がどのようなものかも不明瞭である。
よって、「本質」の対義語が「現象」であるとの考え方もまた不明瞭である。
「本質」の対義語が「現象」であるとの考え方を正しいとすることはできそうもない。
では、事物が持つ本質以外の属性を何と呼ぶべきか。
哲学で、事物が持つ本質以外の属性を「偶有性」と呼ぶ。「個別の事物」がたまたま持つ属性、すなわち偶有的な属性という意味だ。
これは、本質が「普遍の事物」すべてが共通して持つ属性であることと対照的な意味をなし、他に目ぼしい呼称もない。
よって、ここでは、哲学に従って、事物が持つ本質以外の属性を「偶有性」と呼ぶことにする。
本質が「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」であるのに対して、偶有性は「ある事物の一部(一つを含む)にしか共通しない、他の事物に共通することもある属性」である。
同時に、ここでは、「本質」の対義語は、「現象」ではなく「偶有性」と考える。
無論、本質が「現実の見方の根本」、要は「根本」であることから、既に世の中がそう考えているように、「本質」の対義語は「表層」であると考えても構わない。