世の中のあらゆるデータから偶有性をすべて捨ててみる。
すると、「事物を表す」という属性と「保存される」という属性だけが残る。
ゆえに、データの本質は、これらの組み合わせである「事物を表し、保存される」という属性である(「本質とは何か」参照)。
よって、データとは「事物を表し、保存されるもの」である。
平たく言えば、データとは「記録」なのだ。
対して、世の中はどう考えているのだろう。
辞書によれば、データとは「物事の推論の基礎となる事実。また、参考となる資料・情報」である(デジタル大辞泉)。
しかし、「推論の基礎となる」「参考となる」は限定的であり、汎化が不十分と言わざるを得ない。実際には、推論の基礎とならないデータ、参考とならないデータもある。
また、データは「事実」であるとも限らないし、「資料」であるとも限らない。
そもそも「情報」はデータとは異なるものである(「情報とは何か」参照)。
世の中は、データとは何かを分かっていないのだ。
この「データの世紀」と言われる時代においてさえも、である。
では、データは、どこにあるのか。
データは、データを人から人、物から物へ媒介するものとの意味での「媒体」、特に「記録媒体(記憶媒体)」と呼ばれるものにある。
記録媒体には、人の頭(の中の脳)やコンピュータ(の中の記録デバイス)、本や雑誌などがある。
その内、人の頭とコンピュータのデータは「記憶」とも呼ばれる。
だから、コンピュータの記録だけでなく、人の記憶もデータの一種なのだ。
また、記憶が保存された認識であることは言うまでもない。
なお、世の中では、商品価値が商品にあると考えられているが、それは誤りである。
同様に、データは、それが表す事物にあると考えられているが、それも誤りである。
ローマ帝国が滅んでも、ローマ帝国についてのデータはなくならないのは、なぜか。
ローマ帝国についてのデータは、ローマ帝国にあるのではなく、人の頭やコンピュータ、本や雑誌にあるから、なのである。