人は、事物についての認識がプラスの感情(喜びや楽しさなど)を引き起こすとき、すなわち、プラスの価値を生むとき、その事物は「良い」と言う。
プラスの感情を引き起こす事物には「良さ」があるということだ。
また、人は、知らないもの、すなわち認識していない事物に「良さ」を感じない。事物を認識すること、すなわち頭の中に事物の認識をつくることによって「良さ」を感じることになる。
「良さ」は認識が生むものなのだ。
つまり、「良さ」は「感情を引き起こす認識が生むもの」であり、「感情を引き起こす認識が生むもの」は「プラスの価値」である(「価値とは何か」参照)。
ならば、「良さ」は「プラスの価値」であることになる。
一般的にプラスの価値のみを価値と呼ぶことに従えば、「良さ」とは価値である。
では、世の中はどう考えているのだろう。
辞書によれば、「良さ」とは「よいこと。よい状態。また、その度合い」(デジタル大辞泉)であるが、これでは「良いとは何か」が分からないと分かったことにならない。
なので「良い」を引いてみると、「良い」とは「人の行動・性質や事物の状態などが水準を超えているさま」とある。
しかし、「水準を超えている」の意味が曖昧である。どのように「水準を超えている」のか。「水準を超えて大きい」かもしれないし、「水準を超えて重い」かもしれない。
おそらく「水準を超えている」は「優れている」の意味なのだが、その場合でも、本質的に、何がどうだと「優れている」のかを考えなければならない。
事物が「優れている」という判断は、たとえ間接的にであっても、あるいは最終的にではあっても、その事物がプラスの感情を引き起こすことに繋がるからこそなされるものである。
要するに、辞書は「良さ」と「感情」を関係づけることができていない。
それができなければ、「良さ」を「価値」であると解釈することは難しい。「価値」は感情を引き起こすものであるからだ。
世の中は、「良さとは何か」を分かっていない。
誰もが生涯にわたって、常に何かを「良い」の「悪い」のと思い続けて生きているにも関わらず、である。
これでは、「良い」商品をつくることは難しい。「良い」社会をつくることも、そのための「良い」教育をつくることも難しい。
なお、事物についての認識がマイナスの感情を引き起こすとき、すなわち、マイナスの価値を生むとき、その事物は「悪い」と言う。
よって、「悪さ」とは「マイナスの価値」である。
一般的にマイナスの価値をしばしば「害」と呼ぶことに従えば、「悪さ」とは害である。