辞書には、論理とは「①思考の形式・法則。議論や思考を進める道筋・論法 ②認識対象の間に存在する脈絡・構造」(大辞林 第三版)とある。
しかし、これでは、どのような「思考の形式・法則」「議論や思考を進める道筋・論法」「認識対象の間に存在する脈絡・構造」なのかが分からない。
世の中は、「論理とは何か」を分かっていないのだ。
では、論理とは何なのか。
まず、論理は(認識間の)関係の一種であるとする。
辞書の「形式・法則、道筋・論法、脈絡・構造」も関係だ。
次に、論理という関係の本質を求めるべく、あらゆる論理という関係から偶有性をすべて捨てると、「ルールに基づく前提と結論」という属性だけが残る。
「ルールに基づく前提と結論」という属性は、論理という関係すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない。
ゆえに、論理という関係の本質は「ルールに基づく前提と結論」という属性である。
よって、論理とは「ルールに基づく前提と結論の関係」である。
そして、論理は、ルールに対する矛盾がない、すなわち「成立する」とき「真」であり「正しい」とされる。
また、ルールに対する矛盾がある、すなわち「成立しない」とき、偽」であり「誤り」とされる(以下、『「真」であり』『「偽」であり』は省略)。
例えばカードゲームで、ルールに基づく、ゲームの局面という前提と次に出せるカードという結論の関係は論理である。
この論理は、ルールに対する矛盾がない、すなわち成立するとき正しい。ルールに対する矛盾がある、すなわち成立しないとき誤りである。
論理のルールは、意味さえあるものであれば何でも構わない。
ゲームのルールでも、自然法則でも数理的な法則でも、常識や主義のような考え方でも構わない。他の論理でも構わない。
正しい論理の典型としてよく知られる三段論法も見ておこう。
「人間は死ぬ。ソクラテスは人間である。ならばソクラテスは死ぬ」という認識の、「人間は死ぬ」というルールに基づく、「ソクラテスは人間である」という前提と「ソクラテスは死ぬ」という結論の関係は、定言三段論法と呼ばれる論理である(一般的に、ルールは大前提、前提は小前提とされる)。
この論理は、ルールに対する矛盾がない、すなわち成立するから正しい。
しかし、「人間は死ぬ」と「ソクラテスは人間である」(という認識)がその対象である事物に当てはまるという意味で正しければ、「ソクラテスは死ぬ」は正しいが、そうでなければ「ソクラテスは死ぬ」は正しいとは限らない。
実際に、医療の発展によって「人間は死ぬ」が正しくなくなる日が来るかもしれないし、「ソクラテスは人間である」が正しいかどうか、今となっては誰も分からない。
つまり、論理が正しいということは、ルールに対する矛盾がないということでしかない。
論理が正しくても、論理的な結論が正しいとは限らない。
しばしば官僚組織が正しい論理で誤った結論を導出するのは、このことによる。
彼らは、彼らにとって価値があるという意味で正しいルールと前提を置き、正しい論理で誤った結論を出す(「正しさとは何か」参照)。
なお、論理は、ルールに対する矛盾さえなければ、ルールと前提、結論が「想像」であっても正しい。それも、どんなに突飛な「想像」でもだ。
アンパンマンの物語のような、どんなに突飛な想像上の物語でも論理的に正しい展開ができるのは、このことによる。
また、かの有名な万有引力は、最初は論理にルールとして組み込まれた「物体には引き合う力がある」という、当時としては相当に突飛な想像だった。
しかし、「物体には引き合う力がある」は、それに対して矛盾することなく、「地面(という物体)と、地面に生えた木になるリンゴの実(という物体)がある」という前提から「リンゴの実は地面に(引き合う力で)落ちる」という現実の事象を結論として導出できるルールである。
ならば、「物体には引き合う力がある」は、正しい認識である可能性があり、検証に値するものであることになる。
そして、「物体には引き合う力がある」は、後に検証されて万有引力という正しい自然法則(の認識)となった。
つまり、万有引力は、論理に想像を組み込むことによって発見された。
同様に、多くの自然法則は、論理に想像を組み込むことによって発見されてきた。
私は、このような、論理に正しく(矛盾なく)組み込まれた想像、もしくは、論理に正しく(矛盾なく)想像を組み込むことを「論理的想像」と呼んでいる。
また、論理に正しく(矛盾なく)想像を組み込む力を「論理的想像力」と呼んでいる。
近年、国や自治体の自然災害への対策や、企業のリスク対策などにおいて「想定外」という言葉をよく聞くようになった。
論理的思考力の高い人たちがそうした対策を練っているはずなのに「想定外」が頻発する。
きっと、彼らは「論理的想像力」が乏しいのだろう。