価値がどこにあるかを考えてみる。
事物を本質的に理解する上で、ときに、それが物理的にどこにあるかを考えることが有効であるからだ。
ここでは、人にとっての価値だけに焦点を絞る。
価値とは、何らかの事物を対象として人が感じるものである。
このことから、事物の価値は「事物のどこか」か「事物とその価値を感じる人の間のどこか」か「事物の価値を感じる人のどこか」にあると言える。それ以外のところにはない。
その内、まず、事物の価値は、事物のどこかにあるとする。
この場合、その「どこか」がどこなのかを特定することはできない。
事物の構成要素に事物の価値を含めることもない。
ならば、事物の価値は、事物にはないと考えられる。
次に、事物の価値は、事物とその価値を感じる人の間のどこかにあるとする。
この場合も、その「どこか」がどこなのかを特定することはできない。
事物とその価値を感じる人の間にある空間の構成要素に事物の価値を含めることもない。
ならば、事物の価値は、事物とその価値を感じる人の間にもないと考えられる。
よって、消去法によって、事物の価値は、事物の価値を感じる人のどこかとしか考えられない。
では、事物の価値は、それを感じる人のどこにあるのだろう。
人は、事物を認識する、すなわち事物の認識を脳の中につくることで価値を感じる。逆に、脳の中から認識をなくす(忘れる)ことで価値を感じなくなる。
また、人は、脳が生きていれば価値を感じることができるし、逆に、脳死になれば価値を感じることができないようだ。
ならば、事物の価値は、事物を認識する人の脳の中にあると考えられる。
分かりやすく言えば、価値は人の頭の中にある。
なお、認識は記憶(記録)の一種と考えられるので、以下、必要に応じて認識を記憶と言う。
価値が人の頭の中にあるという考え方の論拠は、もっとシンプルなものでも構わない。
事物が商品である場合の例を幾つか挙げる。
・以前使っていて今はない商品でも、商品の記憶を再現することで商品価値を感じることができる。
・発売予定だがまだない商品でも、予告によって商品の認識をつくることで商品価値を感じることができる。
・同じ商品でも、商品を認識する人によって感じる商品価値は異なる。
・商品は変化しなくても、商品の認識が変化すれば、商品価値は変化する。
例えば、企業が不祥事を起こすと、その企業が扱う商品の価値は低下する。
ちなみに、認識ではなく想像することで感じる価値の話になるが、価値が頭の中にあるという考え方の論拠としては、これが最強かもしれない。
・神様・仏様はいないが、神様・仏様という想像は価値を生む。