あらゆる経済からすべての偶有性を捨ててみる。
すると、「対価を伴う価値」と「人の間でのそのやりとり」という属性だけが残る。
ゆえに、経済の本質は「対価を伴う価値」と「人の間でのそのやりとり」の組み合わせである。
よって、経済とは「人の間での対価を伴う価値のやりとり」となる。
長いので「人の間での」を言わずもがなの前提としよう。
経済とは「対価を伴う価値のやりとり」である。
では、世の中はどう考えているのだろう。
辞書によると、経済とは「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程、およびその中で営まれる社会的諸関係の総体」(大辞林)である。
前半の「物資の生産・流通・交換・分配とその消費・蓄積の全過程」は、経済を事物の価値ではなく、事物ベースで捉えたものである。つまり本質的ではない。
仮に、事物ベースで捉えることを可としても、「物資」に限定されており、「サービス」が含まれていないのは、誤りである。
本質的に社会とは「価値をやりとりする人の集まり」(「社会とは何か」参照)であり、ゆえに「価値のやりとり」は「社会的な関係」であるから、後半の「社会的諸関係の総体」は、悪くない。
しかし、「社会的諸関係」がどのようなものであるかが示されておらず、曖昧である。
また、経済学者や経営学者には、経済をシステムと捉える人が少なくない。
そのことを反映してか、ウィキペディアには、経済とは「社会が生産活動を調整するシステム、あるいはその生産活動」とある。
しかし、もしも経済がシステムであるならば、システムのシステムはないから、経済のシステムはないことになるが、実際には経済の仕組みである経済のシステムはある。
よって、経済をシステムと捉えることは、誤りである。
世の中は「経済とは何か」も分かっていないのだ。
だから、国の経済政策は、いつも本質的ではなく、偶有的である。
当たり外れが大きく、実効性が低い。
また、近年指摘されているように、資本主義が行き過ぎるようなことも起きる。
貧富の差は広がる一方だ。
そうでなくても、産業革命の恩恵が薄れはじめてからは、世界の経済は低迷を続けている。
その中で起きたコロナ禍によるさらなる経済の不振に対して、経済学はなんら有効な対策を打ち出せていない。
我々は、本気で経済の本質に迫らなければならない。