常識とは認識の一種である。
あらゆる常識からすべての偶有性を捨てると、残るのは「集団に共通する」という属性である。
ゆえに、常識という認識の本質は「集団に共通する」という属性である。
よって、常識とは「集団に共通する認識」である(「本質とは何か」参照)。
だから、しばしば常識は、集団が異なれば異なるものとなる。
同じ集団でも、時と場合によって異なるものとなる。
常識は、どんなに大きな集団に共通する認識でも、正しいとは限らない。
権威ある集団も含めて、いかなる種類の集団に共通する認識でも、正しいとは限らない。
では、世の中はどう考えているのだろう。
辞書によると、常識とは「一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力」である(デジタル大辞泉)。
しかし、「一般の社会人」とはどんな人(または集団)なのか曖昧だ。そこを不問としても、「一般の社会人」では限定的であり、汎化ができていない。例えば学生のような「一般の社会人」ではない人でも、彼らなりの常識をもつ。
また、「もつべき」も限定的だ。常識には、かつての「天動説」のような「もつべき」ではないものもある。
世の中は「常識とは何か」を分かっていないのだ。
さらに、である。
そもそも世の中は「本質とは何か」を分かっていない。
ゆえに、現代の自然科学の成果である常識を除けば、概して世の中の常識は本質ベースではない。
しかし、本質は現実の正しい見方の根本だ。
本質ベースではない常識だらけの世の中で、例えば「天動説」が常識だった頃の「地動説」のように、本質ベースの考え方(認識)は、常識破りだが正しいものになる。
だから、我々は、常識を疑わなければならない。
自分の頭で、本質ベースで物事を考えなければならない。
ただし、本質ベースではなく、ただやみくもに常識を否定するのはナンセンス。
本質とは何かを分かっていない集団に属する人が言う「常識を疑え」という常識も、本質ベースで疑いましょう。