一般的に「普遍的」なものとされるものの代表格は、本質と自然法則である。
また、普遍的なものであるということは、「普遍(性)」という属性を持つもであるということだ。
よって、本質と自然法則は、普遍という属性を持つものである。
この内、本質とは「普遍的な特徴」すなわち「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」である(「本質とは何か」参照)。
自然法則とは、例えば「質量をもつ物体群すべてに共通し、他の物体群すべてに共通しないもの」である万有引力のように、「ある事物群すべてに共通し、他の事物群すべてに共通しないもの」である。
事物群も事物であるから、自然法則も「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」である。
ならば、普遍とは「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない」という属性であると考えられる。
そう考えて、改めて「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」を探してみる。
すると、本質と自然法則以外に、数学における公理と定理がある。ここでは、それらを数理法則と呼ぶ。
また、論理も「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」である。
つまり、「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」は、一般的に普遍的なものとされるものを網羅的に指す。
したがって、普遍とは「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない」という属性であることになる。
普遍とは「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない(こと)」なのである。
なお、「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」は、「事物すべてに共通するもの」の一種に当たる。
よって、「事物すべてに共通するもの」を普遍的なものと考えて、「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」を普遍的なものの一種とすることもできる。
そして、事物すべてが「ある時空(時間と空間)に存在する」という意味で、時空は「事物すべてに共通するもの」である。
しかし、同じ時空は一つとしてない。
本質や自然法則、数理法則、論理が「ある事物すべてに共通する同じもの」であるのに対して、時空は「ある事物すべてに共通する異なるもの」である。
ならば、時空を「遍在するもの(どこにでもあるもの)」の意味で普遍的なものとすることはできるが、「事物すべてに共通するもの」の意味で普遍的なものとすることはできない。
また、一般的に、「ある事物の多くに共通するもの」も普遍的なものとされることがある。
例えば、「人間の多くに共通するもの」である愛や友情がそれだ。
それはそれでOKなのだろうが、残念ながら、愛や友情が「人間すべてに共通するもの」とは言い難い。
愛や友情を持たない人間もいるかもしれない。
仮にそれらが「人間すべてに共通するもの」だとしても、「他の事物すべてに共通しないもの」とも言い難い。
愛や友情をつ動物もいるかもしれない。
それらは、『「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない」に近い』属性、すなわち「普遍に近い」属性を持つ、「普遍的に近い」という意味での普遍的なものなのだ。
普遍的なものと、普遍的に近いという意味での普遍的なものとは、区別が必要である。
なお、普遍論争において、普遍とは、ある事物すべてを表す「名前」であるとする、「唯名論」と呼ばれる論があった。
しかし、名前には「同名異義語」と呼ばれるものがあり、そうである以上、名前は、「ある事物すべてに共通するもの」ではあっても「他の事物すべてに共通しないもの」とは限らない。
それに、そもそも、普遍は「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」ではない。
普遍とは「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しないもの」が持つ「ある事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない」という属性である。
よって、唯名論は二重に誤りである。