辞書に、抽象とは「事物または表象からある要素・側面・性質を抜き出して把握すること」とある(デジタル大辞泉)。
しかし、一般的に「抽象化する」とは言うが、「抽象する」とは言わない。
だから、抽象は「〇〇すること」ではない。
抽象は、動的なもの(働き)ではなく静的なもの(状態)である。
抽象は「抽象性」であり、「○○である(いる)こと」なのだ。
また、「要素・側面・性質」は、類似する事物の羅列であり、羅列は言葉の定義に使うべきではない。
ここは汎化して「属性」とするほうがいい。
「要素・側面・性質を抜き出す」ことは、要は「捨象する」ことである。
これらのことを踏まえて「事物または表象からある要素・側面・性質を抜き出して把握すること」を修正しよう。
すると、「事物の属性が捨象されていること」となる。
そして、「事物の属性が捨象されていること」は、現実の事物の認識ではあり得るが、現実の事物ではあり得ない。
また、「事物の属性が捨象されていること」もまた事物が持つ属性である。
よって、抽象とは、認識が持つ「事物の属性が捨象されていること」という属性であることになる。
そして、あらゆる抽象からすべての偶有性を捨てると「事物の属性が捨象されている」が残る。
「事物の属性が捨象されている」は、抽象の本質であるということだ。
よって、短縮すれば、抽象とは「属性が捨象されていること」である(「本質とは何か」参照)。
では、抽象(性)という属性を持つ認識、すなわち抽象的な認識には、どのようなものがあるのだろう。
人間の認識には、大別して、普遍的な認識と個別的な認識がある。
普遍的な認識とは、例えば「ネコ」のような「ある事物すべてを表す認識」である。
個別的な認識とは、例えば「ネコの一種である三毛ネコ」や「ウチのタマ(という名前のネコ)」のような「ある事物の一種ないしは一つを表す認識」である。
ここでは、話を単純化するために、この世に一つしかない事物の認識も「ある事物の一つを表す認識」とする。
普遍的な認識の内、例えば「動物の一種であるネコ」のような「ある事物の一種を表す認識」は、個別的な認識でもある。
個別的な認識の内、例えば「ネコの一種である三毛ネコ」の「三毛ネコ」のような「ある事物すべてを表す認識」は、普遍的な認識でもある。
「ウチのタマ」のような「ある事物の一つを表す認識」は、個別的な認識でしかあり得ない。
そして、普遍的な認識とは、「○○という普遍的な特徴(本質)を持つもの」という、本質以外の属性である偶有性をすべて捨象した認識である。
よって、普遍的な認識とは、抽象的な認識である。
「動物」も「動物の一種であるネコ」も「ネコ」も「ネコの一種である三毛ネコ」も「三毛ネコ」も抽象的な認識なのだ。
なお、言うまでもなく、「抽象」の対義語は「具体」であり、「抽象的」の対義語は「具体的」である。
また、相対的な表現として、「動物の一種であるネコ」に対して「動物」は抽象的であり、「ネコの一種である三毛ネコ」に対して「ネコ」は抽象的である。
逆に、「動物」に対して「動物の一種であるネコ」は具体的であり、「ネコ」に対して「ネコの一種である三毛ネコ」は具体的である。
では、「ウチのタマ」のような個別的な認識でしかあり得ない認識(以下、個別的な認識)は、どうだろう。
概して世の中は、「ウチのタマ」を具体的な認識としか考えておらず、抽象的な認識とは考えていない。
同様に、個別的な認識を具体的な認識としか考えておらず、抽象的な認識とは考えていない。
しかし、現実の「ウチのタマ」には、細かく見れば無数の属性がある。
対して、「ウチのタマ」の認識には、その内の一部の属性しかない。
「ウチのタマ」のすべての属性を認識している人はいないだろう。
「ウチのタマ」の認識は、抽象的な認識なのだ。
同様に、現実の事物には、細かく見れば無数の属性がある。
対して、個別的な認識には、その内の一部の属性しかない。
現実の事物のすべての属性を認識している人はいないだろう。
個別的な認識の認識は、抽象的な認識なのである。
実は、人間の認識は、すべて抽象的な認識なのだ。
人間は、あらゆる事物を抽象的に認識し、抽象的な認識を使って抽象的な思考をし、その思考に準じて行動をする。
ならば、「思考力」とは「抽象的な思考力」であることになる。
相対的に「具体的な思考力」と呼べる「抽象的な思考力」は存在するが、絶対的に「具体的な思考力」は存在しない。
つまり、「思考力が高い」ということは「抽象的な思考力が高い」ということなのだ。
「思考力を高める」ことは「抽象的な思考力を高める」ことなのである。
だから、「思考力を高める」、すなわち「頭を良くする」ためには、「抽象的な思考力を高める」ことを心掛けなければならない。
そして、「抽象的な思考力を高める」ためには、敢えて高度に抽象的なことをたくさん考えることが肝要だ。
なのに、日本人は、何かと「普遍的、抽象的」な方向を嫌い、「個別的、具体的」な方向に進もうとする。
それでは、「普遍的、抽象的」な方向に進もうとする人たちに比べて、頭を良くしづらい。言い換えれば、頭が悪くなりやすい。
日本人が欧米人に比べて概念化(=抽象化)が得意でないのは、要するに、頭が悪いせいなのだ(「概念とは何か」参照)。
日本人には、高度に抽象的なことを考える作業がたくさん必要だ。
たくさん哲学することが必要なのである。