辞書に、言葉とは「音声や文字によって人の感情・思想を伝える表現法」とある(デジタル大辞泉)。
しかし、動作も言葉になる。「音声や文字によって」では限定的だ。
様々な動物が様々な方法で感情を伝えている。「人の」を冠して言葉を人間だけのものとするのも限定的である。
「感情・思想」を伝えるとするのも限定的だ。例えば、言葉で知識を伝えることもある。
そもそも、「伝える」も限定的である。ただ頭の中で考えるときに使う言葉もある。
それどころか、他者には伝わらない「自分語」があっても構わない。
というわけで、辞書や辞典によくある話なのだが、限定的で汎化ができていない。
そこで、汎化を試みる。
言葉は「頭の中に生まれる、何かを表すもの」だろう。
しかし、「頭の中に生まれる、何かを表すもの」は、言葉だけではない。
言葉ができる前から「頭の中に生まれる、何かを表すもの」はあった。
「頭の中に生まれる、何かを表すもの」は、大別して認識と想像がある。
認識は、現実に存在する/存在し得る事物を頭の中に表すものである。
想像は、現実に存在しない事物を頭の中に表すものである。
そして、『「頭の中に生まれる、何かを表すもの」を表すもの』も「頭の中に生まれる、何かを表すもの」である。
ならば、言葉とは『「頭の中に生まれる、何かを表すもの」を表すもの』、すなわち「認識と想像を表すもの」かもしれない。
他方、認識と想像を表すことさえできれば、どんなものでも言葉になれる。
音声でも、文字でも、動作でも言葉になれる。
モールス信号でもいいし、絵画でもいい。
場合によっては、無音声、無文字、無動作でもいい。
そして、これらのすべては、認識と想像を表す認識のアウトプットに他ならない。
言葉として発せられる音声は、認識と想像を表す「音声の認識」を外界に再現したもの。
言葉として書かれる文字は、認識と想像を表す「文字の認識」を外界に再現したもの。
言葉として行われる動作は、認識と想像を表す「動作の認識」を外界に再現したものだ。
モールス信号、絵画、無音声、無文字、無動作でも同様のことが言える。
よって、言葉とは「認識と想像を表す認識」であるとの仮定が成り立ちそうだ。
この仮定は、辞書の内容と整合する。
感情認識という言葉があるように、認識は、感情という精神の内部において現実に存在する事物も表す。
ゆえに、感情という認識を表す認識である言葉は、感情も表す。
思想は認識の一種である。
ゆえに、思想という認識を表す認識である言葉は、思想も表す。
認識と想像を表す認識のアウトプットは、認識と想像を他者に伝える。
いわゆるコミュニケーションの道具となる。
そして、何よりも、「認識と想像を表すこと」と「認識であること」の組み合わせは、言葉が持つ「言葉すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」、すなわち本質である。
よって、言葉が「認識と想像を表す認識」であるとの仮定は間違いない。
言葉とは「認識と想像を表す認識」なのである(「本質とは何か」参照)。
なお、世の中には、認識と想像の定まった総称がない。
「頭の中に生まれる、何かを表すもの」という極めて重要なものの名前がないのである。
つくづく、人間は、自分たちのことがまるで分かっていないと思う。
なのに結構分かったつもりでいる。
分かったつもりでいるから、「頭の中に生まれる、何かを表すもの」の名前がないことにも気づかない。
困ったことである。
そこで、私は「頭の中に生まれる、何かを表すもの」を「念」と呼ぶ。
このことに従えば、認識と想像の総称は「念」である。
「認識と想像を表す認識」は「念を表す認識」である。
よって、言葉とは「念を表す認識」である。