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価値とは何か

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価値(人にとっての価値)とは何かを考えるにあたって、以下4つのことを前提とする。

① 価値とは何かを規定するものは価値の本質であり、本質とは「事物の普遍的な特徴」、すなわち「事物すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」である(「本質とは何か」参照)。
② 価値は人の頭の中にある(「価値はどこにあるか」参照)。
③ 事物には、それを構成する要素である内的属性と、他の事物との関係である外的属性がある。
④ 一般的に考えられているように、価値は感じるものである。

価値が感じるものであるならば、価値は感覚である。
ゆえに、価値の本質は、価値という感覚の内的属性か外的属性、あるいはその両方である。

しかし、感覚の内的属性の中に「価値すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」を見出すことはできないだろう。
例えば、痛みの種類(突き刺すような痛み、鈍い痛みなど)や程度(強弱)を見出すことはできるが、痛みを構成する要素を見出すことはできない。
よって、あらゆる事物に本質があるとすれば、価値の本質は、価値の外的属性の中にあることになる。

そこで、価値は人の頭の中にあるものであることを踏まえて、人の頭の中にある事物の中に、価値との間に「価値すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」と言える関係を持つ事物を探してみる。
それは、簡単に言えば、「常に価値とワンセットで存在する頭の中の事物」であるはずだ。

すると、候補として「認識」が浮かび上がる。

人は、知らないもの、すなわち認識していない事物に価値を感じない。事物を認識すること、すなわち頭の中に事物の認識をつくることによって価値を感じることになる。
ならば、価値は認識が生むものと考えられる。

また、「感情」も浮かび上がる。
人は、認識をつくるだけで価値を感じるわけではない。つくった認識が感情を引き起こすことによって価値を感じることになる。
ならば、価値は感情を引き起こす認識が生むものと考えられる。

つまり、価値は認識と感情との間に「感情を引き起こす認識が生む」という関係を持つ。
そして、「感情を引き起こす認識が生む」は、「価値すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性(外的属性)」である。
ゆえに、価値の本質は「感情を引き起こす認識が生む」という属性である。
よって、価値とは「感情を引き起こす認識が生むという属性を持つもの」、すなわち「感情を引き起こす認識が生むもの」である。

しかし、「感情を引き起こす認識が生むもの」の「もの」がどのような「もの」であるかも見極めなければなるまい。
物理的にはおそらく脳内に発生する電気的な刺激なのだろうが、もっと汎化したい。

物理学に、すべての自然法則を包摂する「万物の理論」がある。
まだ完成には至っていないようだが、これまでの成果から「この世は、事物とその間の相互作用(作用と、反応という作用)という事物でできている」という極めてシンプルな考え方を導出できる。

そこで、『価値とは「感情を引き起こす認識が生むもの」』であることを、万物の理論から導出される事物間の相互作用の構造に当てはめてみる。
感情は認識に対する反応であると考えれば、価値は、認識が作用する対象の事物か、認識の作用であることになる。
しかし、価値は認識が生むものであるから、認識が作用する対象の事物ではあり得ない。
ならば、価値は認識の作用であることになる。

ゆえに、価値という作用の本質は「感情を引き起こす認識が生む」という属性である。
よって、価値とは「感情を引き起こす認識の作用」である。
これが結論だ。

そして、作用は連鎖するから、作用である価値も連鎖する。価値という作用を受けて生まれた感情は、何かの事物に働きかけたり、他者に影響を与えたりという行動(作用)を連鎖的に引き起こす。
だからこそ、世の中で「バリューチェーン(価値連鎖)」という考え方が唱えられるようになったのだろう。

では、世の中が考える価値とは何かを見てみよう。

辞書では、価値は「何らかの目的実現に役立つ性質や程度」(大辞林)とされる。
しかし、人は目的がなくても価値を感じるから、「何らかの目的実現に役立つ性質」は、価値の一種でしかない。
また、価値が「程度」であるとすると、「程度」の「程度」はないから、価値の程度(高低や大小)はないことになるが、実際にはある。ゆえに、「何らかの目的実現に役立つ程度」は、価値ではない。

価値とは哲学で言う「真・善・美」であるとの考え方もある。
しかし、「善」と「美」は、価値の一種でしかない。「真」は、価値を生むものではあるが、価値の一種でさえもない。

経済学で言う価値も、対価を伴う価値という、価値の一種でしかない。

世の中は、価値とは何かが分かっていない。
人類全体としては、価値が何かは、古代ギリシア時代から続く謎なのだ。

さて、価値が「感情を引き起こす認識の作用」であることが分かると、分かることがある。

「感情認識」という言葉があるように、我々は、感情を認識することができる。例えば、喜びという感情を認識できる。
しかし、「喜びを引き起こす(認識の)価値は、どのようなものか」と問われれば、「喜び」としか答えようがないように、実は、人は価値を認識することができない。

人は、認識に対する反応である感情を認識することで、認識の作用である価値の存在を認識する。
これは、多くの場合、人が薬の作用を認識できずに、薬に対する患部の反応、すなわち効果を認識することで薬の作用の存在を認識するのと同じことと考えられる。
つまり、価値は認識できない作用なのだ。

ゆえに、しばしば世の中は、価値を感情で代替して、例えば「喜びという感情を引き起こす価値」の代りに「喜びという価値」と言う。
価値が認識できない作用であることは、世の中を価値が何かが分からないままにさせている主たる要因の一つだろう。
認識できない作用を感覚と呼ばないとすれば、厳密には、冒頭の前提④にある「価値は感じるもの」も正しくない。

なお、価値が認識できない作用であるならば、その内的属性の中に「価値すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」を見出すことができないことは言うまでもない。
いずれにしても、価値の本質は外的属性の中に求めるしかない。

また、『価値とは「感情を引き起こす認識が生むもの」』であることを事物間の相互作用の構造に当てはめてみたときに、価値が「感情を引き起こす認識の作用」であることが分かっても、認識が作用する対象の事物が何であるかは謎のままである。

「感情を発生する何か」であるから「心」とでも言いたいところであるが、認識と価値、「感情を発生する何か」と感情の総体を「心」と言う場合もあるから、そうはできないだろう。

そこで、ここでは「感情を発生する」ことの重要性に鑑みて、「心核」とでも呼んでおく。
おそらく、いわゆる「感受性」は心核の属性であり、感受性の高い心核からは豊かな感情が発生することになるのだと思う。

ちなみに、感情にはプラスの感情とマイナスの感情がある。
日本の伝統的な感情の分類である「喜怒哀楽」に従えば、「喜」すなわち「喜び」、「楽」すなわち「楽しさ」がプラスの感情である。「怒」すなわち「怒り」、「哀」すなわち「哀しみ」がイナスの感情である。

ならば、価値には、プラスの感情を引き起こすプラスの価値と、マイナスの感情を引き起こすマイナスの価値があると考えるのが自然だろう。
ゆえに、認識には、プラスの価値を生むプラスの認識と、マイナスの価値を生むマイナスの認識がある。

しかし、通常、世の中では、プラスの価値だけを価値と呼ぶ。
話を単純化するため、世の中にならって、特にプラスの価値と マイナスの価値を区別する必要がある場合を除き、本辞典でもプラスの価値だけを価値と呼ぶこととする。

また、厳密には、人の頭の中で感情を引き起こすものは認識だけではない。想像も人の頭の中で感情を引き起こす。
話を単純化するため、特に認識と想像を区別する必要がある場合を除き、 ここでも想像は認識の一種と考える。

Good? or Not Good?

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