辞書には、可能性とは「物事が実現できる見込み。または、事実がそうである見込み」(デジタル大辞泉)とある。
今回は、「辞書」の内容をヒントにして、可能性とは何かを求めてみたい。
「見込み」とは、「○○(前提)ならば□□(結論)」、すなわち「推論」の「結論」の内、主に未来の事物を表すものであり、それでは限定的だ。
可能性の話は、未来の事物だけのお話ではないから、「見込み」ではなく「推論の結論」のほうがいい。
そして、「推論の結論」には、「殺人が起きた密室にいたのは彼だけだ。ならば、彼が犯人だ」の「彼が犯人だ」のような過去の事物を表すものがある。
「いま彼女と電話で話している。ならば、彼女は生きている」の「彼女は生きている」のような、現在の事物を表すものがある。
「もっと練習する。ならば、試合で勝てる」の「試合で勝てる」のような、未来の事物を表すものがある。
「コイントスをする。ならば、表(裏)が出る」の「表(裏)が出る」のような、過去、現在、未来に共通する事物を表すものがある。
では、「推論の結論」とは何だろう。
この世には、下記3つの事物がある。
・現実に存在する事物
・現実に存在する事物を表す「認識」という事物
・現実に存在しない事物を表す「想像」という事物
ここで、現実に存在する事物は、物理的に存在する事物である。
対して、「認識」と「想像」は、感覚として存在する事物である。
また、「表す」とは、個々の人が頭の中で行う作業である。
検証が必要な、現実に存在する事物に「当てはまる」とは異なることであることに注意が必要だ。
そして、「推論の結論」は、あくまでも前提から導出されたものである。現実に存在する事物を「表す(再現する)」ものではない。
「推論の結論」とは「想像」なのだ。
しかし、「推論の結論」は「想像」でありながら、現実に存在する事物に「当てはまる」ことがある。
また、「当てはまる」程度には様々ある。
そして、『「推論の結論」が現実に存在する事物に「当てはまる」程度である』ことは、「可能性すべてに当てはまり、他の事物すべてに共通しない属性」、すなわち、可能性の本質である(本質とは何か」参照)。
また、現実に存在する事物に「当てはまる」程度とは、「真」という「正しさ」の程度に他ならない。
ゆえに、可能性とは『「推論の結論」の「正しさ」の程度』となるが、一般的に「推論の結論」を単に「推論」と言うことに従って、簡潔な表現にしたほうが分かりやすい。
つまり、可能性とは「推論の正しさの程度」である。
だから、結局、辞書で言う「見込み」は、限定的であるだけでなく、誤りでもある。
「見込み」という言葉が「見込みの正しさの程度」の意味で使われることもなくはないが、「見込みの正しさの程度」とすべきだろう。
なお、世の中では、しばしば可能性を「確率」と言うことがある。
しかし、確率とは「偶然起こる事象の、事象全てに対する割合」である。可能性は確率ではない。
可能性を確率で表すことがあるだけのことなのだ。
例えば、コイントスで「表が出る」という事象は偶然起こる事象であり、その確率は1/2である。
対して、コインやコイントスをする人、周辺の物理的条件に影響されて、コイントスで「表が出る」可能性は約1/2だが、1/2ではない。
また、一般的に、推論が現実に存在する事物に当てはまるとき、「可能性がある」と言う。
推論が現実に存在する事物に当てはまらないとき、「可能性がない」と言う。
可能性があって、かつ最高であるとき、すなわち、推論が確実に当てはまるときの可能性を「必然性」と言う。
他方、可能性があって、かつ最高でないとき、すなわち、推論が確実にではないが当てはまるときの可能性を「蓋然性」と言うことがある。
ちなみに、学識者の一部に、可能性には「有無」しかなく「高低」はない。蓋然性には「高低」があるとの考え方がある。
「可能性が高い(低い)」との言い方は誤りであり、「可能性はあるが、蓋然性は高い(低い)」との言い方は正しいとの考え方だ。
その主要な根拠として、英語で可能性は「possibility」、蓋然性は「probability」という別表現だということが挙げられている。
しかし、英語で「possibility」が「high」だ「low」だという表現は珍しくない。
それに、同じ意味を持つ別表現は、多くの言語で多くある。
そもそも、可能性(possibility)には「有無」しかないとの考え方がどこから出てきたのか分からない。
「可能性はあるが、蓋然性は高い(低い)」との言い方も面倒くさくて、有用性がない。
どうやら、この考え方は忘れてしまってもよさそうだ。
大事なことは、認識や想像は、生身の人間が事物を感覚として「表す」ものでしかない。それが現実に存在する事物に「当てはまる」程度には、ゼロを含めて様々あるということなのである。