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数とは何か

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辞書によれば、「数(かず、すう)」とは下記のものである(日本国語大辞典から抜粋)。
① 一、二、三…など物の順序を示す呼び名。
② 物の数量や分量などを示す呼び名。物を一つ一つ数えたもの。

②の「数量や分量などを示す」は、「など」を取って汎化すれば、「量を示す」である。
よって、辞書が正しいとすれば、「数」は「順序を示す」ものか、「量を示す」ものであることになる。

このことを手掛かりに、改めて「数」とは何かを求めたい。

「数」が「量を示す」ものであるならば、量とは何かを考えておかねばならない。

事典には、量について下記のように記されている(世界大百科事典)。
『ある性質を有する任意の二つの物を、その性質によって順序づけることができるとき、その性質を〈量〉という。
そして、そうでない性質は〈質quality〉といわれる。
重さ、長さ、温度、硬さなどは量であり、色、血液型などは質である。
例えば重さの場合、任意の二つの物を重さによって、「より重い」という関係で順序づけることができる。
したがって重さは量である。
これに対し色の場合は、任意の二つの物を色によって、「より……」という関係で順序づけることはできない』

要するに、事典は、量とは「順序づけることができる性質」であると言っている。

しかし、量ではなく質でも、順序づけることができる。
例えば、色の場合、人によって異なる順序づけにはなるだろうが、感覚的に「より明るい(暗い)」と順序づけることができる。
対して、量は、人によって異なる順序づけになるものではない。
よって、量は、人によって異なることなく順序づけできる性質と考えたほうがいい。

また、確かに重さは「より重い」と順序づけできるが、「この重さ」と特定することもできる。
いや、むしろ「この重さ」と特定することができるから「より重い」と順序づけできると考えるべきだろう。
重さに限らず量全般に汎化すれば、「この量」と特定することができるから、「量がより大きい(小さい)」と順序づけできるのだ。

だとすると、人には共通の「量のものさし」と「目盛り」が備わっていると考えることができる。
人に共通して備わる「量のものさし」のどの「目盛り」に該当するかで「この量」と特定することができ、ゆえに、「量がより大きい(小さい)」と順序づけできる。
そう考えると、量とは「大きさが客観的に特定できる性質」であることになる。

ならば、である。
「数」とは、人に共通して備わる「量のものさし」の「目盛り」を表すものが「数」であると考えられる。

我々は、例えば「重さ1㎏」「長さ2m」「広さ3㎡」のように、量の種類によって異なる「単位」を「量のものさし」の「目盛り」を表す「数」に組み合わせることで、何の量がどれだけの大きさかを特定する。

しかし、「数」は、「イチ、ニ、サン」という声や「1、2、3」という文字であるわけではない。
それらが「量のものさし」の「目盛り」を表すものと認識できない人にとって、「イチ、ニ、サン」という声も「1、2、3」という文字も「数」ではない。
「イチ、ニ、サン」という声の認識や「1、2、3」という文字の認識を「量のものさし」の「目盛り」を表すものとして使うとき、それらは「数」になる。

つまり、「数」とは、「量のものさし」の「目盛り」を表す認識なのだ。
ゆえに、「数」は、「量のものさし」の「目盛り」を表す認識であれば、何の認識でも構わない。
「イチ、ニ、サン」以外の声の認識でも、「1、2、3」以外の文字の認識でも構わない。
声や文字以外の認識でも構わない。例えば、動作の認識でも構わないし、光の認識でも構わない。

と、「数」とは何かが分かったところで、辞書の内容を振り返ってみよう。

「量のものさし」の「目盛り」は、順序ではない。
「量のものさし」の「目盛り」を表す認識も、順序ではない。
ゆえに、「数」とは、辞書にあるような「順序を示す(表す)」ものではない。
順序とは、「数」ではなく、「数」間の関係であると考えたほうがいい。

また、「数」、すなわち「量のものさし」の「目盛り」は、それでだけで「量を示す(表す)」ものにはならない。
単位との組み合わせで「量を示す(表す)」ものになる。
ゆえに、「数」とは、辞書にあるような「量を示す(表す)」ものではない。

なお、「量のものさし」も、「量のものさし」の「目盛り」も、頭の中の現実に存在する事物である。頭の外の現実に存在する事物ではない。
よって、感情認識が頭の中の現実に存在する事物である感情を表す認識であるように、「数」は頭の中の現実に存在する「量のものさし」の「目盛り」を表す認識である。

そして、「数」が『頭の外の現実に存在する事物ではない「量のものさし」の「目盛り」を表すもの』であるがゆえに、「数」には、単位と組み合わせても現実に存在しない量(のようなもの)しか表さないものがある。

例えば、「マイナスの数」「ゼロ」「虚数」がそうである。
頭の外の現実に「マイナスの数」「ゼロ」や「虚数」で表せる量は存在しない。

また、現実には素粒子の大きさよりも小さな大きさは存在しないはずだが、「数」は、それよりも小さな大きさを表すことができる。

そうした意味で、「量のものさし」も、「量のものさし」の「目盛り」も、人間が頭の中に持つ「量の形式」であると言える。
おそらく、「量の形式」は人間が先天的に備えるものだ。

分かりづらければ、宇宙人を想像するといい。
たぶん彼らは、人間とは異なる「量の形式」を備えている。
でも、ちゃんと彼らなりに量を認識できているだろう。

もしかすると、宇宙人の「量の形式」は、頭ではなく他の部位の中にあるのかもしれないが。

Good? or Not Good?

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