辞書によれば、「形(かたち)」とは「物の姿や格好。形状。かたち」である(デジタル大辞泉)。
同じ辞書で、「姿」は「物の、それ自体の形」である。「形」は「姿」であり、「姿」は「形」であると言っていることになる。
また、「格好」は「外から見た事物の形」である。「形」は「格好」であり、「格好」は「形」であると言っていることになる。
また、「形状」は「形」の言い換えでしかない。
「かたち」に至っては、もはや言い換えですらなく、「形」の読みでしかない。
世の中は、「形」とは何かをまるで分かっていないのだ。
では、「形」とは何なのか。
世の中は、「形」は物体が持つものと考えている。
物体が持つものとは、物体の構成要素である。
つまり、世の中は、「形」は物体の構成要素であると考えている。
しかし、実際には、「形」は物体の構成要素としては存在しない。
ゆえに、物体をどのように分解しても、「形」を取り出すことはできない。
ならば、「形」は、物体ではなく、物体の認識の構成要素であると考えるしかない。
人間は、何かの事物を認識するとき、その事物を「範囲」で括って認識する。
同様に、物体を認識するときには、その物体を「範囲」で括って認識する。
物体の認識は「範囲」という構成要素を持つということだ。
そして、物体の認識が持つ「範囲」は、物体が持つ「形」に当たる。
また、物体が持つ「形」に当たるものは、物体の認識が持つ「範囲」以外にない。
つまり、「形」とは「物体の認識が持つ範囲」なのである。
なお、認識の「範囲」は、認識が持つ「形式」である。
物体が持つ「形」という現実に存在しない事物に当たるが、想像ではない。
想像にも「範囲」があり、想像の「範囲」は、想像が持つ「形式」である。
「範囲」という「形式」は、おそらく人間に先天的に備わるものだ。
ちなみに、我々は、頭の中にある認識の「範囲」を頭の外にある事物で表すとき、例えば紙に円を書くように、「範囲」の境界を線で表すことが多い。
しかし、認識の「範囲」の境界が頭の中に物理的な線で存在するわけではない。便宜的に線を使って「範囲」の境界を表しているだけである。
つまり、紙に書かれた月(の認識の「範囲」の境界)を表す円のような、物体の「形」の境界を表す「線」は、存在しないものを表す存在するものなのだ。
認識のメカニズムは、本当に面白い。