辞書によれば、法則とは「一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、必然的関係。また、それを言い表したもの」(デジタル大辞泉)である。
この内容を起点にして、改めて法則とは何かを考えてみる。
「必然(性)」とは、推論の正しさの最大程度である(「可能性とは何か」参照)。
法則が「常に」成立することを言うために「必然的」という言葉を使っているのだろうが、法則は推論でもなく、推論が当てはまるものでもないから、「必然的」は適切ではない。
「常に」成立することを言うのであれば、「普遍的」だけで十分だ。
本来、「成立する」は、現実に存在する事物ではなく、それを表す認識について使う言葉である。
ここは「存在する」のほうがいい。
また、「関係」とは認識である(「関係とは何か」参照)。
「関係」とすべきは、「それを言い表したもの」のほうである。
これらのことを踏まえつつ、「事物」を一旦「ある事物」として考えてみる。
すると、法則とは「一定の条件下で、ある事物の間に存在する普遍的なもの」、言い換えれば「一定の条件下で、ある事物の間に普遍的に存在するもの」であることになる。
そして、厳密には、「一定の条件下で、ある事物の間に普遍的に存在するもの」は、「ある事物の間」だけに普遍的に存在するものだ(以下、このことを言わずもがなの前提とする)。
また、「一定の条件下で、ある事物の間に普遍的に存在する」は、自然科学における法則(原理)と数学における法則(公理・定理)すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性である。
よって、自然科学における法則を物理法則、数学における法則を数理法則と呼ぶとして、法則をそれらに限定すれば、法則とは「一定の条件下で、ある事物の間に普遍的に存在するもの」であることになる(「本質とは何か」参照)。
しかし、良く考えてみると、「ある事物の間に普遍的に存在するもの」は、「ある事物群の普遍的な特徴」である。
例えば、「〇〇と××という事物の間に普遍的に存在するもの」は、『「〇〇と××」という事物群の普遍的な特徴』なのだ。
ならば、法則とは「一定の条件下での、ある事物群の普遍的な特徴」であることになる。
また、「一定の条件下での」は、『「△△と□□」という事物群が存在する状況下での』のような、「ある事物群が存在する状況下での」の意味である。
ならば、「一定の条件下での、ある事物群の普遍的な特徴」は、「ある事物群が存在する状況下での、他のある事物群の普遍的な特徴」であることになる。
『「△△と□□」という事物群が存在する状況下での、「〇〇と××」という事物群の普遍的な特徴』は、『「△△、□□、〇〇、××」という事物群の普遍的な特徴』なのだ。
仕上げに、「ある事物群が存在する状況下での、他のある事物群の普遍的な特徴」を単純化しよう。
これは、要するに「ある事物群の普遍的な特徴」である。
また、「ある事物」を「事物」に戻すと「事物群の普遍的な特徴」となる。
よって、法則とは「事物群の普遍的な特徴」である。
これが結論だ。
なお、「事物群」を「事物」と見なせば、「事物群の普遍的な特徴」は「事物の普遍的な特徴」である。
そして、本質とは「事物の普遍的な特徴」である。
ならば、実は、法則とは本質の一種であることになる。
一つの事物とみなされない事物群の本質ということだ。
また、本質とは認識である。
ゆえに、法則とは認識である。
つまり、法則とは、事物(の認識)間の関係である本質である。
ちなみに、世の中で言う「法則」には、「普遍的ではない(事物群すべてに共通するわけではない)」ものもある。
例えば、社会科学における「法則」と呼ばれるものは、おそらくそのすべてが普遍的ではない。事物群の多くに共通するものでしかない。
だから、普遍的なものだけを「法則」とするのであれば、社会科学における「法則」は「法則らしきもの」でしかない。
つまり、社会科学における「法則」は、「本質」ではなく「偶有性」なのだ。
我々は、そのことを十分理解した上で、社会科学における「法則(らしきもの)」を活用しなければならない。