辞書によると、意味とは「言語、作品、行為など、なんらかの表現によって示される内容。また、ある表現が、ある物事の内容を表わし示すこと」である(日本国語大辞典)。
前半の「言語、作品、行為など、なんらかの表現によって示される内容」は、プロセスのアウトプットとしての「意味」である。
後半の「ある表現が、ある物事の内容を表わし示すこと」は、プロセスとしての「意味」である。
ここでは、プロセスのアウトプットとしての「意味」に絞って、意味とは何かを改めて考えてみよう。
辞書の内容に従えば、意味とは「言語、作品、行為など、なんらかの表現によって示される内容」であることになる。
これは、要するに「表される内容」だ。
では、「表す」とは、どういうことなのか。
ここでは、「表す」の主語を人間とする。
「表す」には、大別して2つの「表す」がありそうである。
1つ目は、認識が現実の事物を頭の中に「表す」の「表す」や、想像が非現実の事物を頭の中に「表す」の「表す」である。
つまり、事物を頭の中に「表す」の「表す」だ。
2つ目は、認識と想像が頭の中に「表す」事物を、例えば絵に「表す」の「表す」のような、認識と想像が頭の中に「表す」事物を頭の外に「表す」の「表す」である。
つまり、事物を頭の外に「表す」の「表す」だ。
しかし、事物を絵に「表す」ということは、本人にとって、事物を頭の外に「表す」絵を頭の中に「表す」認識が、元の事物を「表す」場合に限る。
同様に、事物を頭の外に「表す」ということは、本人にとって、事物を頭の外に「表す」事物を頭の中に「表す」認識が、元の事物を「表す」場合に限る。
ならば、結局、「表す」には、事物を頭の中に「表す」の「表す」しかない。
「表す」とは、認識と想像が事物を「表す」の「表す」なのだ。
そして、「表される内容」という表現は、どのような「内容」かを問われるべきものである。
答えは「認識と想像が頭の中に表す事物」となるのだろうが、それは、現実の事物ではなく、感覚としての事物である。
よって、意味とは「認識と想像が頭の中に表す感覚としての事物」であることになるが、「認識と想像が」は言わずもがなの前提とすることができる。
すると、意味とは「頭の中に表される感覚としての事物」であることになる。
そして、「頭の中に表される感覚としての事物である」は「意味すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」、すなわち意味の本質である。
したがって、意味とは「頭の中に表される感覚としての事物」である(「本質とは何か」参照)。
だから、頭の中に浮かぶものでも、「事物」と感じられないものは、意味をなさないもの、すなわち意味不明(今の流行り言葉で言えば「イミフ」)なものとなる。
また、認識の持つネットワーク構造や、量や形の形式、その他の形式に準じたものでないと、「事物」と感じられないもの、すなわち意味不明なものとなる。
そして、我々は、意味をなさないものに価値を感じづらく、意味をなすものに価値を感じやすい。
それで、しばしば、意味をなすものを「価値あるもの」と言う代わりに「意味あるもの」と言う。
「その行為には、意味がある」は、「その行為には、価値がある」なのだ。
なお、通常、我々は、「認識(想像)が表す意味」を「認識(想像)」と呼んでいる。
「私は、〇〇という認識を持っています」と言うときの「認識」は、「認識が表す意味」である。「私は、〇〇という、認識が表す意味を感じています」ということだ。
しかし、これは、必ずしも「認識(想像)」と「認識(想像)が表す意味」が別のものであるということではない。
「認識(想像)」という物理的な事象を人間が「意味」として感じているということだろう。
また、通常、認識(想像)は、言葉や数(という認識)によって表される(「言葉とは何か」参照)。
数も言葉と考えれば、言葉が生まれた以降、意味は、長らく言葉によって表されてきた。
そのせいか、世の中は、言葉が表す意味、すなわち言葉の意味を、言葉自体の意味だと考えているが、それは誤りである。
言葉の意味とは、言葉が表す認識(想像)の意味なのだ。
とは言え、言葉は、認識(想像)の微妙な違いを表し得る優れものである。
現実の事物を表す認識の場合、それをどの言葉で表すかは、現実の見方を決定的に左右する。
現実を正確に見たければ、すなわち、現実を正確に頭の中に表したければ、そして、それを正確に人に伝えたければ、正確な言葉を使わなければならない。
そうでなければ、頭の中に表される現実世界は、言葉が生まれる前ほどではないだろうが、混沌としたものになる。