事典によると、心とは「知、情、意によって代表される人間の精神作用の総体、もしくはその中心にあるもの。精神と同義とされることもある」(世界大百科事典)である。
「知、情、意によって代表される人間の精神作用の総体」は、18世紀のドイツの哲学者カントが広めた「人間の精神は知(知性)、情(感情)、意(意志)によって構成される」という考えに準じるものだろう。
ならば、「知、情、意によって代表される」よりも「知、情、意によって構成される」のほうがいい。
また、「精神作用」は、「精神と同義とされることもある」ともあるから、単に「精神」でいい。
つまり、この事典に準じれば、心とは「知、情、意によって構成される人間の精神の総体、もしくはその中心にあるもの」であることになる。
そして、前半の「知、情、意によって構成される人間の精神の総体」は、広義の心だろう。
対して、後半の「その中心にあるもの」は、狭義の心である。
ここで、「価値とは何か」でも使った図を見てみよう。
これは、物理学の「万物の理論」に基づき、頭の内外間の相互作用をモデル化したものだ(「価値とは何か」参照)。
「知、情、意」が図中のどこかに当たるとすれば、どこに当たるのか。
「知」とは、図中の「認識」の部分に当たる。
外部の事物からの作用や、内部の心(核)からの作用である感情を受けて、頭の中に外部の事物や感情を表す認識をつくり、つくった認識をインプットとして新たな認識をアウトプットする、すなわち思考するという精神の領域だ。
思考の結果によっては、外の事物に対する作用を発する、すなわち行動のトリガーを出すこともある。
「情」とは、「認識」の右の部分に当たる。
認識からの作用である価値を受けて、私が勝手に「心核」と呼ぶものが感情という反応を生むという精神の領域である。
そして、考えてみると、人間の精神活動には、何かを認識して思考し、そこから価値を感じて感情を生み、それを認識して思考し、行動のトリガーを出すという活動しかない。
つまり、「知」と「情」だけで精神全体をカバーする。
よって、人間の精神は、「知、情、意」ではなく「知、情」によって構成されると考えていい。
実は、日本には、昔から「情理を尽くす」という言葉がある。「理」は「知」と同義であろうから、これは、人間の精神は「情、知」で構成されることを前提とするものだ。
その意味で、精神の構成については、ドイツ哲学よりも日本の伝統的な考え方のほうに軍配が上がる。
圧倒的に「情理」よりも「知、情、意」のほうが世界に普及してしまっているので、便宜的に私も「知、情、意」を使っているが、正しいのは「情理」である。
「意」については、こう考えればいい。
「情」は、行動のトリガー出しに繋がらない受動的なものと、繋がる能動的なものに分けられる。
その内、行動のトリガー出しに繋がるもの、つまり能動的な「情」が「意」なのである。
話を戻そう。
事典によれば、心とは「知、情、意によって構成される人間の精神の総体、もしくはその中心にあるもの」となる。
前半の「知、情、意によって構成される人間の精神の総体」、すなわち広義の心は、「知、情によって構成される人間の精神の総体」と変えれば、正しい。
既に確認したように、「知」と「情」だけで精神全体をカバーするからだ。
ただし、「知と情の総体」と単純化したほうがいいだろう。
では、後半の「その中心にあるもの」、つまり狭義の心とは何か。
「知」は、人間だけのものではない。コンピューターにも備わるものだ。
ゆえに、人間の精神の中心にあるものは、「知」ではなく、「情」であると言える。
そして、心核のありよう次第で、認識からの作用である価値に対する反応である感情のありようが決まる。
ならば、「情」の中心にあるものは、心核であることになる。
だからこそ、私は、価値に対する感情を生む精神の領域を、広義の心の中心という意味で、「心核」と呼んできた。
狭義の心とは、心核、すなわち「価値に対する感情を生む精神の領域」なのだ。
さらに、ここでは、広義の心を忘れて、狭義の心を単純化しよう。
心とは「感情を生むもの」である。
これが結論だ。
なお、無論、精神とは、認識だけではなく想像の領域でもある。
想像の価値に対しても、心とは「感情を生むもの」である。
また、心は、精神の外部かつ人体の内部にある本能からの作用(影響)を受けるものでもある。
それがまた生き物らしくていいのだが、だからと言って、心が本能に支配されるものであるわけでもない。
本能に逆らって、心は人を死に走らせる感情を生むこともある。
最後に、人は楽しむために生きる(「人は何のために生きるのか」参照)。
つまり、人はプラスの感情を生むために生きる。
豊かな感情を生む人生は、豊かな人生なのだ。
そして、心のありようで、感情のありようは決まる。
ならば、心のありようで、人生は決まる。
知力を鍛えるのもいいが、より、心も鍛えたいものである。
でないと「頭でっかちの貧しい人生」になってしまいますよ。