辞書によると、感情とは「物事に感じて起こる気持ち。外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる、ある対象に対する態度や価値づけ。快・不快、好き・嫌い、恐怖、怒りなど」(デジタル大辞泉)である。
「物事に感じて起こる」ことは、頭の中の事象に他ならない。厳密に言えば、「物事の認識に感じて起こる」である。
「外界の刺激の感覚や観念によって引き起こされる」ことは、既に頭の中の事象として表現されているが、少しややこしい。
「外界の刺激の感覚や観念」を認識の作用(刺激)と言い換えれば、「認識の作用によって引き起こされる」と単純化できる。
「ある対象に対する態度や価値づけ」は、要するに「ある対象に対する反応」であるから、上記の内容も踏まえれば、「認識の作用に対する反応」という「態度や価値づけ」となる。
これは、下記に示す、私が本質ベースで導出してきた「精神とは何か」「心とは何か」「認識とは何か」「価値とは何か」とほぼ整合する。
・精神とは「思考(認識のプロセスとアウトプット)と感情を生む肉体領域」
・認識とは「存在する事物を表すもの」
・心とは「感情を生むもの」
・価値とは「感情を引き起こす認識の作用」
これらの結論を導出するために用いた図を掲げておこう。
この図は、物理学における「万物の理論」に基づき、頭の内外の事物間に存在する相互作用をモデル化したものである。
さて、ここまで見てきた内容をまとめると、感情とは「認識の作用に対する心の反応」となる。
一般的に、「事物の作用に対する反応」を「事物に対する反応」と言うから、短縮すれば「認識に対する心の反応」である。
しかし、心とは「感情を生むもの」であるとしたように、感情を使って心を規定している以上、心を使って感情を規定してはダメだ。
そこで、考えたのが「認識に対する生理的な反応」である。
「認識に対する生理的な反応」であることは、「感情すべてに共通し、他の事物すべてに共通しない属性」、すなわち感情の本質と言える。
また、感情の本質は、「感情とは何か」を規定する(「本質とは何か」参照)。
よって、感情とは「認識に対する生理的な反応」であることになる。
無論、心は肉体の一領域であるから、「生理的」ではなく「肉体的」でもいいとの考え方もあるかもしれない。
しかし、「肉体的な反応」では、ある感情が生まれたことによって起きる「笑う」や「泣く」なども含むことになるから、広すぎる。
また、心は本能の影響を受けるから、「生理的」ではなく「本能的」でもいいとの考え方もあるかもしれない。
しかし、「本能的な反応」では、食べ物や異性など、生命の維持や種の保存に関わる事物に対象が限定されることになるから、狭すぎる。
ただし、ここまでは、話を単純化するために「想像」を横に置いてきたが、「認識」を「想像」に置き換えて、感情とは「想像に対する生理的な反応」とすることもできる。
したがって、感情とは「認識と想像に対する生理的な反応」である。
なお、人は、心が反応しないこと、すなわち感情が生まれないことを考えない。
逆に言えば、人は、感情が生まれることだけを考える。
つまり、感情は思考を駆動するものだ。
だから、「社会は感情で動く」という考え方があるが、その意味で正しい。
ただし、感情は心の反応であることをお忘れなく。