辞典によると、恋とは「異性(時には同性)に特別の愛情を感じて思い慕うこと」(日本国語大辞典)である。
「時には同性」の「同性」は、「生物学的な同性だが社会的な異性」の意味だろう。生物学的にも社会的にも同性が対象の愛情は、一般的に恋とは呼ばない。
また、「特別の愛情を感じて思い慕うこと」は「特別の愛情を感じること」と短縮できる。
よって、「異性(時には同性)に特別の愛情を感じて思い慕うこと」は「異性に特別の愛情を感じること」となる。
しかし、「異性に特別の愛情を感じること」は「恋すること」になるかもしれないが、「恋」にはならない。
恋は「異性への特別の愛情」でいい。
また、「特別の愛情」は、「変わった愛情」の意味なのか。
それとも「強い愛情」なのか。
答えは後者だろう。
前者だとすると、「異性への特別の愛情」は「異性への変わった愛情」になるから、少々変態じみてくる。
ならば、「特別の愛情」は「愛」でいい。
つまり、辞典が言う愛は「異性への愛」なのだ。
しかし、よく考えてみると、相手を異性として意識していない場合は、「異性への愛」でも「恋」とは呼ばれない。
よって、「異性としての他者への愛」のほうがいい。
これなら、恋すべてをカバーできそうだ。
また、恋以外の感情をカバーしそうもない。
感情は、生理的な反応であるから、それ以外の事物の場合ほど確たることは言えない。
しかし、「異性への愛」は、当たらずとも遠からず、だろう。
恋とは「異性としての他者への愛」である。
だから、「恋愛」は、「恋と愛」でも「恋か愛」でもない。
「恋という愛」と考えておくといい。
なお、愛とは「その感情が自分の感情であるかのような他者への感情」である。
平たく言えば、「あなたが嬉しいと自分も嬉しいと感じる相手への感情」だ(「愛とは何か」参照)。
人生は、自分のことだけを嬉しがるより、他者のことも嬉しがるほうが豊かなものになる。
愛は、複雑であるがゆえに傷もつくるが、人生を豊かにする。
中でも、恋は強い愛である。
恋は、大きな傷もつくるが、人生を極めて豊かにする。
だから、やはり「いのち短し 恋せよ乙女」なのだ。
いや、今の時代だから「いのち長し、それでも恋せよみんな」とでも言うべきか。
ちなみに、英語では愛も恋も「LOVE」である。
日本人にとって、異性への愛には、固有の名前がなくてはならないもののようだ。
もしかすると、辞書が言う「特別の愛情」は、そういう意味なのかもしれない。