事物は、人の頭の中に価値を生む認識を生む(「価値はどこにあるか」参照)。
ゆえに、商品という事物は、顧客の頭の中に商品価値を生む認識を生む。
商品価値とは「対価と交換される価値」である(「商品価値とは何か」参照)。
よって、商品とは「顧客の頭の中に、対価と交換される価値を生む認識を生むもの」である。
短かく言えば、商品とは「顧客の頭の中に商品価値を生むもの」だ。
商品価値は顧客の頭の中に生まれることを言わずもがなの前提とすれば、「商品価値を生むもの」と短縮することもできる。
また、商品の本質とは「商品価値を生む」という属性である(「本質とは何か」参照)。
では、根源的な商品とは何だろう。
例えば、マグロという商品は、マグロという事物に捕獲、運搬、加工、それらのための計画や仕組みづくりなど、人の働きが加えられてつくられる。
そして、人の働きが加えられたマグロが生む商品価値の対価が、顧客からマグロに働きを加えた人に支払われる。
このときの対価の対象は、美味などの、マグロが生む価値ではない。マグロに加えられた人の働きが生む商品価値である。
人は、自ら捕獲、運搬、加工、それらのための計画や仕組みづくりのすべてをしたときには、どんなに美味でも、マグロが生む価値を商品価値とは考えず、対価を支払わない。そもそも、対価を支払う相手がいない。
そして、マグロに加えられる人の働きは、人が生む。
ならば、マグロの商品価値は、人が生むものであることになる。
同様に、すべての商品価値は、働く人、すなわちビジネスマンが生む。
そして、商品とは「商品価値を生むもの」である。
つまり、ビジネスマンは、すべての商品価値を生む商品なのだ。
その意味で、ビジネスマンは、根源的な商品である。
また、すべての商品価値は、ビジネスマンの価値である。
だから、ビジネスマンは、自分という商品が生む価値、要は「自分の価値」を売っている。このことは、業種・職種を問わず、すべてのビジネスマンに当てはまる。
分かりやすい例は、芸能人だろう。
芸能人は、自他共に認める商品である。彼らは自分の価値を売っていると思っているし、顧客も彼らの価値を買っていると思っている。
根源的に商品価値がビジネスマンの価値であることから、多くのことが分かる。
ビジネスマンは、商品に媒介させて自らの価値を顧客の頭の中に生む。
ビジネスマン以外の商品は、ビジネスマンの価値を顧客の頭の中に生むための、ビジネスマンの価値の媒体でしかない。
ビジネスマンは、自らの価値を顧客の頭の中に生むために、自らの価値の媒体である商品をつくる。芸能人も芸という商品(サービス)をつくる。
商品価値は、マグロに加えられる捕獲、運搬、加工のように、商品に付け加えられる。その意味で、商品価値は「付加価値」である。
マグロに加えられる捕獲、運搬、加工が人の作用であるように、商品価値はビジネスマンの作用である。
また、作用は連鎖する。
その意味で、マグロの上での捕獲、運搬、加工のような価値の積み重なりを価値の連鎖と捉えられて「バリューチェーン」と呼ぶのは正しい。
ただし、厳密に考えれば、ビジネスマンの価値=商品価値=付加価値は、顧客の頭の中に届いて、すなわち顧客に認識されて初めて価値となる。
それまでは、ビジネスマンの価値=商品価値=付加価値は、単なる商品に加わった作用でしかない。バリューチェーンもただの作用の連鎖でしかない。
同様に、ビジネスマンの価値=商品価値=付加価値が顧客に認識されるまで、商品は、単なる人の作用が加わった事物でしかない。
例えば、工場の製品倉庫にある商品は、まだ商品ではないし、そこからお店へ運搬中の商品も、まだ商品ではない。お店に並んでいる商品でさえ、まだ商品ではない。
なお、商品価値がビジネスマンの価値であることは、経済学でも古くから言われてきたことだ。
しかし、そのことと関連して主張されていた、商品価値の大きさがビジネスマンの労働量で決まるという考え方は誤りである。
商品価値の大きさは、それが引き起こす顧客の感情の大きさで決まるのである。