辞書によれば、友情とは「友達の間の情愛」(デジタル大辞泉)である。
「情愛」は、あまり使われる言葉ではない。よく使われる言葉にすれば「愛」だろう。
よって、「友達の間の情愛」は「友達の間の愛」である。
つまり、辞書の内容に従えば、友情は、愛の一種であることになる。
では、愛とは何か。
愛とは「その感情が自分の感情であるかのような他者への感情」である。
平たく言えば、「あなたが嬉しいと自分も嬉しいと感じる相手への感情」だ(「愛とは何か」参照)。
ならば、愛には「一方的な愛」と「相互的な愛」があると考えられる。
そして、友情は、その内の「相互的な愛」であると考えることができる。
そう考えると、友情は愛の内の大きな範囲を占め得るものとなるが、それでよさそうだ。
世界大百科事典には、友情について「人間全体を一つの家族として包み込む人間相互の兄弟愛をも意味する。このもっとも広い意味で、友愛は〈博愛philanthropy〉〈隣人愛brotherly love〉と同義である」との言及があり、この解釈は頷ける。
また、そもそも、友情とは何かの答えに「友達」という言葉を使うのは適切ではない。
ゆえに、「友達の間の愛」という表現も適切ではない。
したがって、友情とは「相互愛」である。
これが結論だ。
ならば、である。
しばしば友情と区別される「異性として見る者の間の相互的な愛」、すなわち「相互的な恋」も、実は友情の一種であることになる。
「相互的な恋」は、友情に「異性として見る」という属性が加わったものなのだ。
だからこそ、恋が終わっても、つまり相手を「異性として見る」ことがなくなっても、友達でいることができるのだろう。
また、「家族の間の相互的な愛」も友情の一種であることになる。
「家族の間の相互的な愛」は、友情に「家族として見る」という属性が加わったものなのだ。
だからこそ、近年は「友達のような家族」も少なくないのだろう。
ただし、家族であれば常にそこに「家族の間の相互的な愛」があるわけではない。
「家族として見る」ことは、どうやら複雑怪奇なことであるようだ。
さらに、家族であれば常にそこに友情があるわけでもない。
「家族として見る」ことが「相互愛」が生まれることを阻害しているのかもしれない。
なお、人を相互に愛することは、相互に傷をつくるが、相互に人生を豊かにするものだ。
友情は人生を豊かにしてくれる。
しかし、「あなたが嬉しいと自分も嬉しいと感じる相手への感情」を相互に持てる相手、すなわち「あなたが嬉しいと自分も嬉しいと互いに感じる相手」に恵まれることは、なかなかない。
つまり、真の友達に恵まれることは、なかなかない。
だからこそ、「友は宝なり」なのだろう。