辞書(辞典)には、欲求とは下記のものとある。
①「強くほしがって求めること」(デジタル大辞泉)
②「ほしがり求めること。ある物を得たいと強く願うこと。また、ある制約、条件のもとにおける欲望をいう」(日本国語大辞典)
どちらも「欲求」の単なる言い換えのレベルを脱していない。
また、どちらにも含まれる「強く」は、不要だろう。欲求が「強いもの」であるのなら、強い欲求は「強い強いもの」であるという妙なものになってしまう。
それに、一般的に、弱い欲求も欲求と考えられている。
②の「ある制約、条件のもとにおける」も不要である。
一般的に、欲求という言葉を「ある制約、条件のもとにおける」ものとして使っていない。
他方、事典には、心理学や精神医学の術語として、欲求とは下記のものとある。
③「人間を行動に駆りたてる内的な動因」(世界大百科事典)
※「動因」とは「行動を人の内部から引き起こすもの」であり、対して、「誘因」という「人の外部から誘発するもの」があるようだ(心理学事典)。
これは、一般的に言われる「欲求」が何かをある程度説明するものである。
そこで、欲求とは「人間を行動に駆りたてる内的な動因」であるとの解釈を手掛かりにして、欲求とは何かを改めて求めてみたい。
ここでは、欲求とは認識できるものであるとの前提を置く。
その上で、物理学における「万物の理論」に基づき、頭の内外間の相互作用をモデル化した図を見てみよう。
これは、精神の構造を示す図でもある(「精神とは何か」参照)。
このモデルに準じれば、認識できるものとは、精神の外部にある現実の事物か、精神の内部にある感覚としての事物である感情しかない。
そして、欲求が「人間を行動に駆りたてる内的な動因」であるならば、欲求は、精神の外部にある現実の事物ではあり得ない。
よって、欲求は、感情でしかあり得ない。
ならば、欲求とは「人間を行動に駆りたてる感情」であることになる。
事典で言う「動因」とは「感情」なのだ。
では、人間が行動するのは、なぜなのか。
その答えは明白だ。
人は、(プラスの)価値を求めて行動する。
また、欲求は人間に特有のものではない。
ならば、「人間を行動に駆りたてる感情」よりも「価値を求める感情」のほうが根本的で汎化された表現になる。
つまり、欲求とは「価値を求める感情」である。
なお、感情とは、認識(記憶)の作用に対する心の反応である(「感情とは何か」参照)。
心は、本能の作用も受ける。
よって、欲求には、認識(記憶)の蓄積によって「経験的」に生まれるようになったものと、もともと「本能的」に備わるものがある。
また、欲求と似たものに「意志」があるが、これらは同じものではない。
欲求は「価値を求める感情」である。
その内の、経験的なものが意志なのだ。
つまり、意志は欲求の一種なのである。