辞書には、客観とは下記のものとある(日本国語大辞典)。
①意志や認識などの精神作用が目標として向かう対象。また、主観と独立して存在する外界の対象。対象。客体。
②自分の直接的な関心から離れて、第三者の立場で、物事を見たり考えたりすること。
また、客観の対義語は「主観」とある。
①は、辞書にもそうあるが、一般的に言う「客体」であり、通常、「客観」と「客体」は区別されている。
よって、客観は客体ではない。
②は、一般的に言う「客観視すること」や「客観的に考えること」であり、客観ではない。
他方、同じ辞書に、客観の対義語である主観とは「自分ひとりの考え方」とある。
それをこれに加味すれば、客観とは「第三者の立場での考え方」となり、このほうが一般的に言う客観に近くなる。
しかし、ここで言う「第三者」とは、特定の誰かではない者であり、この世に特定の誰かではない者など存在しない。
ゆえに、「第三者」という者は存在しない。
存在しない者の立場はないから、「第三者の立場」というものも存在しない。
存在しない立場での考え方はないから、「第三者の立場での考え方」というものも存在しない。
よって、客観が存在する者であるとするならば、客観とは「第三者の立場での考え方」ではない。
では、客観とは何なのか。
客観の対義語は「主観」である。
主観とは、「個人の認識と想像」である(「主観とは何か」参照)。
「個人の認識」には感情認識も含まれる。
そして、一般的に言う「客観」とは、想像と感情を排したものである。
ならば、客観とは「個人の感情を排した認識」であると言える。
これが結論だ。
なお、世の中では、それが「第三者の立場での考え方」であるがゆえに、「客観」、つまり「客観的な」認識は、「真である」認識という意味での「正しい」認識であることの前提条件になっている。
前提条件どころか、しばしば、「客観的な」認識すなわち「正しい」認識であると捉えられることもある。
しかし、「客観的な」認識は、「個人の感情を排した認識」でしかない。
「客観的な」認識は、正しいとは限らない。
逆に、「主観的な」認識すなわち「誤った」認識であると捉えられることもある。
しかし、「主観的な」認識は「個人の認識」である。
「主観的な」認識は、誤っているとは限らない。
現に、例えば自然法則のような、あらゆる正しい認識は、最初は誰かの「個人の認識」として生まれ、その後人々の間で共有されることになったものだ。
また、そもそも、「第三者の立場での考え方」であることが「正しい」ことの理由にはならない。
それに、そもそものそもそも、前述のように、「第三者の立場での考え方」など存在しない。
さらに、人は主観しか持つことができない。
よって、厳密には、客観は主観の一種でしかない。
客観の過大評価、主観の過小評価は、そろそろやめるべきである。
大切なのは、「真である」認識という意味での「正しい」認識、すなわち正しい主観を持つことなのだ。
そのことが、我々が現実への正しい対応をとることを可能とする。
ちなみに、私が『「客観的な」認識』と言うときは、「第三者の立場での考え方」という意味を含まない。
純粋に「正しい(真である)」認識の意味か、「正しい(真である)」とされる認識の意味で使っている。