辞書によれば、前提とは「ある物事が成り立つための、前置きとなる条件」(デジタル大辞泉)である。
「成り立つ」すなわち「成立する」のは、物事ではなく、物事を対象とする認識である。
ならば、「条件」もまた認識であると考えるべきだろう。
よって、「ある物事が成り立つための、前置きとなる条件」は「ある認識が成立するための、前置きとなる認識」となる。
「前置き」は、「前提」の言い換えでしかない。
「前提」が「前置きとなる認識」では、「前提とは前提である」と言っているようなものだ。
そこで、前提は認識であるとし、「成立する」という視点で前提とは何かを考える。
例えば、「人間は男か女のどちらかである」という認識に対して、『「私(という人間)は男である」または「私(という人間)は女である」』という認識は成立する。
このとき、「人間は男か女のどちらかである」という認識は、『「私は男である」または「私は女である」』という認識が成立する前提とされる。
他方、「人間は男か女のどちらかである」という認識に対して、『「私は男である」かつ「私は女である」』という認識は成立しない。
このとき、「人間は男か女のどちらかである」という認識は、『「私は男である」かつ「私は女である」』という認識が成立しない前提とされる。
また、もしも「人間は男か女のどちらかである」という認識が成立しない認識であったらどうか。
「人間は男か女のどちらかである」という認識は、『「私は男である」または「私は女である」』という認識の前提ともされず、『「私は男である」かつ「私は女である」』という認識の前提ともされない。
ならば、前提とは「認識が成立するか否かを規定する成立する認識」であることになる。
他に、推論における前提の例も見ておこう。
世の中で、「人間は死ぬ」という認識は、『「私は人間である。ならば私は死ぬ」』という認識の大前提(ルール)とされる。
その上で、「私は人間である」という認識は、「私は死ぬ」という認識の小前提とされる。
つまり、『「人間は死ぬ」かつ「私は人間である」』は、「私は死ぬ」という認識の前提とされる。
この内、前者において、「人間は死ぬ」という認識は、『「私は人間である。ならば私は死ぬ」』という認識が成立することを規定する成立する認識である。
また、「人間は死ぬ」という認識は、『「私は人間である。ならば私は死なない」』という認識が成立しないことを規定する成立する認識である。
後者において、『「人間は死ぬ」かつ「私は人間である」』という認識は、「私は死ぬ」という認識が成立することを規定する成立する認識である。
また、『「人間は死ぬ」かつ「私は人間である」』という認識は、「私は死なない」という認識が成立しないことを規定する成立する認識である。
そして、「認識が成立するか否かを規定する成立する認識」は、あらゆる前提に当てはまる。
また、一般的に、「想像が成立するか否かを規定する成立する想像」も前提と呼ぶ。
よって、前提とは「認識(想像)が成立するか否かを規定する成立する認識(想像)」であることになる。
前提が成立するものであることを「言わずもがな」の前提として短縮すれば、前提とは「認識(想像)が成立するか否かを規定する認識(想像)」である。
なお、辞書には、前提とは「論理学で、推論において結論が導き出される根拠となる判断」ともある。
論理学における前提の解釈では、前提は推論において現れるものであるということだ。
確かに、前提を置くということは、「大前提(ルール)に基づき、前提から結論をつくること」、すなわち推論(すること)に他ならない(「推論とは何か」参照)。
例えば、既出の、「人間は男か女のどちらかである」という認識を『「私(という人間)は男である」または「私(という人間)は女である」』という認識が成立する前提とすることもそうである。
これは、大前提である「人間は男か女のどちらかである」という認識に基づき、『「私は人間である」。ならば「私は男である。または女である」』という認識をつくること、すなわち、「私は人間である」という前提から「私は男である。または女である」という結論をつくることである。
どうやら、論理学における解釈通り、前提は推論において現れる認識(想像)と考えてよさそうである。