辞書によれば、「結果」とは「ある原因や行為から生じた、結末や状態」(デジタル大辞泉)である。
「行為」も「原因」の一種であろうから、「ある原因や行為」は「ある原因」でいい。
「ある原因」の「ある」は、なくてもいい。
「結末」は、「結果」の単なる言い換えと解釈できる。「結果」の定義に使う言葉として適切ではない。
「結果」は「状態」とは限らない。例えば、鍛錬の結果としてオリンピックで獲得した金メダルは「状態」ではない。
ならば、「結末や状態」は単純に「事物」でいい。
そう考えると、「ある原因や行為から生じた、結末や状態」は「原因から生じた事物」となる。
また、「原因から生じた事物」は、「他の事物から生じた事物」と汎化できる。
我々は、「他の事物から生じた事物」の「他の事物」を「原因」と呼んでいるだけなのだ。
さらに、過去形の「生じた」ではなく現在形の「生じる」を使って「他の事物から生じる事物」とするほうが定義として一般的な表現である。
それに、これは趣味の問題だが、「他の事物から生じる事物」より「他の事物が生む事物」のほうがいい。
そして、「他の事物が生む事物」は「結果」すべてに当てはまり、それ以外の事物すべてに当てはまらない。
よって、「結果」とは「他の事物が生む事物」である。
なお、万事において、世の中では「原因」より「結果」が重視される。
これは、世の中の多くの人にとって「原因」の価値より「結果」の価値のほうが高いということである。
「原因」より「結果」を重視すること自体に、真偽の意味での正誤はない。
しかし、厳然たる真実として、幸運が生むものを除き、良い「結果」は良い「原因」が生む。
良い「原因」をつくらなくても良い「結果」を得られるとの考えは、偽の意味で誤りである。
ところが、だ。
人間は、しばしば、そうした誤った考えに捕らわれる。
中でも、組織の「結果」に責任を負うリーダーにはそれが多い。
私の見立てでは、特に、日本企業の経営者にそれが多い。
企業の「結果」は主に従業員という「原因」が生む。
ゆえに、企業の良い「結果」は、良い従業員という良い「原因」が生む。
よって、良い従業員をつくらなくても良い「結果」を得られるとの考えは、偽の意味で誤りである。
なのに、傾向として、日本企業の経営者は、良い従業員をつくらなくても良い「結果」を得られると考える。
だから、従業員にろくな教育もしないで、ただただ良い「結果」を求めることになる。
日本企業の経営者には、頭が悪い人が多いのである。
そういう人たちを経営者にしてしまう日本人全体も頭が悪いのかもしれない。
日本人がたいして稼げない国民であり続けているという「結果」を生んでいるのは、単なる不運ではなさそうだ。