辞書によれば、「帰属」とは「物や人が、どこに、あるいはだれに属するか、ということ」(精選版 日本国語大辞典)である。
何かに属するものは「物(モノ)」や「人」だけではない。「事(コト)」も属する。
また、「人」は「物(モノ)」の一種である。
よって、「物や人が」は、「事物が」にすべきである。
事物が属する先は「どこ」と「だれ」では限定的であり、汎化すると「何か」となる。
よって、「物や人が、どこに、あるいはだれに属するか、ということ」は、「事物が何かに属するか、ということ」となる。
「事物が何かに属するか、ということ」は、単純化すれば「事物が何かに属すること」である。さらに単純化すれば「属すること」だ。
「属すること」は「帰属すること」であり、「帰属すること」は、「帰属」を「〇〇すること」と動名詞的に言い換えたものでしかない。
要するに、辞書の解釈は、「そのまんま」をいろいろ飾り立てたものなのだ。
これでは、まるで参考にならない。
そこで、「帰属」とは何なのかをイチから考える。
現実の事物には、それを構成する要素が帰属する。
しかし、その構成要素の中に「帰属」という要素はない。
ならば、「帰属」は現実の事物ではないと考えるしかない。
「帰属」は、認識上の事物なのだ。
では、認識の構造とはどういうものか。
現実の事物についての認識は、「範囲」と「構成要素」である「内的要素」を持つ。
話を単純化するために、「範囲」も「内的要素」の一種と考えれば、現実の事物についての認識は「内的要素」を持つ。
また、現実の事物についての認識は、他の現実の事物についての認識との間に「関係」という「外的要素」を持つ。
つまり、構造的に、認識は「内的要素」と「外的要素」という「要素」を持つ。
このとき、「要素」は、認識に「帰属」する。
ならば、「帰属」とは「認識の要素が認識との間に持つ関係」であることになる。
「要素」が「関係」である場合も含めてだ。
また、認識だけでなく、想像も「内的要素」と「外的要素」という「要素」を持つ。
このとき、「要素」は、想像に「帰属」する。
よって、「帰属」とは「認識/想像の要素が認識/想像との間に持つ関係」であることになる。
そして、「認識/想像の要素が認識/想像との間に持つ関係」は、「帰属」すべてに当てはまり、「帰属」以外の事物すべてに当てはまらない。
したがって、「帰属」とは「認識/想像の要素が認識/想像との間に持つ関係」である。
なお、「認識/想像の要素が認識/想像との間に持つ関係」は、『認識/想像の要素が認識/想像との間に持つ「属する(帰属する)/属される(帰属される)」関係』であるとも言える。
「要素」は「属するもの(帰属するもの)」の意味で「属性」とも呼ばれることも少なくない。
ちなみに、世の中は、「帰属」が現実の事物であるかのように考える。
集団への「帰属」である「所属」でもそうだ。
例えば、会社への「所属」を現実の事物であるかのように考える。
ゆえに、自分を「会社に所属する自分」という現実の事物として考える。
よって、他者に自分を「△△(会社)の〇〇(自分)です」などと紹介することに違和感を覚えない。
しかし、会社への「所属」というものは、たとえ記録があっても、それを認識している人がいなくなれば、消えてしまうものである。
あるいは、それを認識している人全員がその認識をなくしてしまえば(忘れてしまえば)消えてしまう。
会社への「所属」は、現実の事物ではない。
だから、自分を「会社に所属する自分」という現実の事物として考えるのは、誤りである。
同様に、自分を「集団に所属する自分」という現実の事物として考えるのは、誤りである。
現実の事物として存在するのは、「集団に所属する自分」ではなく、「自分」である。
つまり、現実として、自分は「○○(集団)の自分」ではない。「自分」なのだ。
自分を集団への所属物(帰属物)と考える事なかれ。